pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

「イオの惨劇」の冬野ワールド

 
著者の冬野由記さんとは、実は面識があり、冬野さんの書いた絵をしばらく診察待合室に掛けさせて頂いていました。
面識はあるのですが、実際の人物よりもどちらかというとネット上の冬野さんの方をよく知っているという感じです。
 
pianqueのツイッターは当初、中医学に関する色々な情報や勤務先のスケジュールなどを発信する目的で始めたのですが、ツイッターのコミュニティをしばらく見ていた結果、現在単なる内面のつぶやきを発するものと化しています。
勤務先のスケジュールも書こうとは思ったものの、あのタイムラインを全部見てスケジュールをフォローする人などいないわけで、もっぱらHPでの公開となっています。
そのツイッターで冬野さんを知ったのですが、家に置いてあった絵の描き手であることを知ったのはかなり後のことです。
 
うちには本棚がいくつかあり、仏教書コーナー(といっても数冊ですが)に一緒にあった「イオの惨劇」という本のタイトルだけは前から見ていたわけですが、作者名にふと目が行ったのもなぜかつい最近(こういうこと、皆さん経験ないでしょうか?)で、冬野さんの書いた本ということで早速読ませて頂きました。
 
「イオの惨劇」はSF小説で、21世紀末が舞台になっており、地球以外の太陽系の惑星などにも人が住んでいて、かつ、特殊な能力を持つ「テレパス」という人たちが惑星間の通信を担っているという設定の物語です。
物語の中では東京は戦禍で荒廃しており、物語の舞台の一つに「月端」(現在のつくば市)が出てきます。もう一つの舞台が木製の惑星であるイオです。
主人公はリンとリョウという少女と少年。この二人は特殊能力を持つテレパスであり、それぞれ違う惑星に住んでいながら互いに恋愛感情を持つ特別な関係となります。
この二人と、周囲の人物を軸に話が展開していきます。
 
中学生以降ぐらいから、SFものはほとんど読んでいないpianque(新井素子とか星新一ぐらいしか覚えていない)、その理由は「リアリティを感じないから」だったんですが、今回久々にSFを読んでみるとなかなか楽しい。
文章自体の面白さもあるのでしょうが、最後まですいすい読み進んでいました。
考えてみればSF以外の小説だってフィクションと言えば全部フィクションなわけで、物語として面白ければジャンルで偏見を持つ必要もなかったのです。
 
この小説が書かれたのは2003年です。
当時はといえば、私がマックのノートPCを買ってワープロ代わりに使っていた頃で、学会発表は写真屋でスライドを作成し、スマホスカイプもなければ確かネット通販もそれほどはなかった時代。
と、ここまで書いた所で、2003年と今との違いがそれほどあるのかというと、ネット環境の普及ぐらいかもしれないとも思いました。
他にも地デジとか色々な違いがあるかもしれませんが、すぐに思い出せません。
2017年にこの小説を書いたら、ディテールは少し違っていたかもしれません。
しかし、我が職場を見返してみると、いまだに診療情報提供書をわざわざ患者さんに取りに行ってもらうとか、処方薬の情報が全く共有されていないとか、医師資格証の取得に医師会まで行かないといけないとか、紙の書類があきれるほど多いとか、色々な点で大してデジタル化されていないことから、ネットはまだ(少なくとも日本の、我々の業種においては)ラディカルに職場環境を変える所まで行っていません。
私たちが今「未来の社会」としてイメージするものと、2003年の人がイメージするものとは、大まかには違わないという気もします。
2001年宇宙の旅が2001年には実現しなかったことを考えると、我々の想像力は今のところ現実を上回っており、それは人間の文明にまだかなり進歩の余地があることを示しています。
 
SFを書くのは相当に色々な考察が必要なはずです。
時間や距離の感覚、構成、空間的想像力、書こうとしている事象について科学的に大きな矛盾がないかなど。
そのうえで自分の世界観を描くという作業です。
それを考えるのが作家さんの楽しみの一つでもあるのでしょうが、映画の製作に近いものがあるかもしれません。
この小説の一つの世界観が「電波などが届きそうにない惑星間の通信を、特殊な才能を持つ人間のコミュニケーション能力に委ねている」という点です。
この発想がSF界ではわりと普通のものなのか、pianqueには判断ができないのですが、「人間の心と心のやり取りが時空を超えて違う惑星まで届く」という解釈にすると、とても詩的な世界となります。
さらにこの話は、二人の主人公たちの愛の持つ力の理由が、この時代においてもまだ未解明のままであるという設定であり、文明が相当進化しても人間の心にはまだ未知の部分があるということになっています。
この「分からない所がある」ことが魅力を持つものです。
全てが分かってしまった世界で物語の面白さは生まれません。
 
この小説は他にも、詩的な部分がかなりあり、SFというジャンルがむしろその部分を表現するための表現方法であるようにも見えます。
スペース・オデッセイとしては、かなり序盤の部分で本が終わってしまっているため、いくつかの伏線が回収されず、時間軸がつかみにくいところもあるのは残念で、本来はいくつかの続編のあとに完結する話なのだと思います。
また、ストーリーの中に矛盾がないわけではないのですが、これはSFものを見るとたいてい少しはあるので、そこに目くじらを立てる必要はないでしょう。
 
それよりも、小説の細部に、作者の持つ世界が散りばめられており、それがまとめきれなかった、そういうコンテクストの(過剰ともいえる)豊富さを感じます。
 
政治的にこの小説で描かれる時代である21世紀末のレジームがどうなっているのか、現在の我々には想像もつきません。
2003年よりも現在の方が、民主主義の限界が色々見えてきており、かといってそれに代わるイデオロギーがまだ今の所見つかっていません。
東西や左右の対立よりも経済格差による対立が鮮明化してきている時代でもあります。
また、この本が書かれた頃にはあくまで仮想だった米中戦争は、この頃よりは現実味を帯びてきています。
SNSが世論を形成し、それがまだ主流ではないものの、「保育園落ちた日本死ね」のように、ネット世論が政治を動かす実例も出てきました。
この小説の中では核戦争は出てこないのですが、起こる可能性もなくはないぐらいというぐらいになっています。
 
もしも私が未来のレジームをSFとして描くのであれば、やや戯画的に、人間に政治的なアイデアを出させて行政官僚をすべて人工知能にする(そうすれば官僚の腐敗を予防できるだろうから)というアイデアにすると思います。
ただ、それだけでも、最善と思われるイデオロギーよりも強力にレジームを変えてしまうかもしれず、人工知能を話に入れてしまうと全てのディテールを一から考え直すことになるのかもしれません。
私にそんな筆力はないため、よほど時間をかけて練らない限りこの思い付きはお蔵入りするでしょう。
この話の中に人工知能はあまり出てこないのですが、SFが表現の方法であるという見方にたつと、その方がむしろ分かりやすい話になっていると思います。
 
この小説の中では、政治的、歴史的な変遷についての挿話がいくつかあり、ここはSFになじみがあまりない人にも読み応えのある部分です。
イデオロギー的に未来の政府がどうなっているかは書かれていませんが、この世界の中では宗教はまだ存在しているようです。)
そういう部分もあれば、恋愛小説的な部分、小説としての写実性にすぐれた部分、作者の豊富な趣味をうかがわせる部分もありで、むしろこの作者自身に興味を持つ人がいるのではないかと思ったりします。
私は、残念ながら芸術的な才能にはほとんど恵まれず、センスに関わる話は全て連れ合いに任せている人間なのですが、作者の多才ぶりを羨みつつ、小説の続編を心から期待しています。
とはいえ、こういう小説形式ではなく、作者がもう少しエッセイ的にご自身の体験を描くスタイルにするのでも、それはそれでかなり面白くなりそうな気がしています。