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pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

生活の中のヨガ、メディカルコレクトネスなどのお話3つ

#会報の記事向けに書いたもの(全部は掲載されないかもですが…)ですがブログにも載せておきます。


ここ3年ぐらい、ヨガを日常生活に取り入れるようになり、最近は短い時間であっても日課にするようになっています。
自分は体が硬くヨガには向いていないと思っていたのですが、続けるとそれなりですができることが増えてきます。
日常のヨガが「体のお掃除」のようになっており、例えば忙しかった日や長旅の後などにヨガを行うと次の日に疲れが残りません。
精神的にもすっきりするため、気持ちの整理にもなります。
(部屋の掃除は滞りがちですが、実は部屋の掃除をすることもヨガ的にいいこととされています)
体の色々な部位がそれぞれ特定の感情と結びついているというのがヨガの発想です。
痛みを感じる場所には滞りがあるということになるのですが、自分の体のどこに痛みを生じているかを観察する事で、現在の自分の状態について知る事ができます。
もちろん、ヨガをしていれば全く健康になれるかというとそうではなく、風邪を引いたり持病の片頭痛が出たりもするわけですが、それは何かの警告症状(睡眠不足や疲労などに対する)であり、出るべくして出るものであるということがわかります。
私が15年ぐらい学んでいる中国医学は、心と身体の関連について言及はするものの、臨床においてはむしろ身体に焦点が置かれることが多いと思います。
臓腑論などで心の問題を考えると、あくまでそれは五臓の不調和や体質的問題としてとらえられるため、治療としてはそのほうがわかりやすいのですが、患者さんが病院を出た後、つまり普段の生活の中での心のありようについてを問うことがやや難しくなります。
インドの古典医学と中国医学は似ている点も多いのですが、ベースになっている哲学(というか宗教)の違いで根本的に異なっていると思われるところもあります。
薬についてはより日本人に親しみのある漢方薬を用いるほうがよいでしょうが、理論的には相補的と思われる部分もあります。

日本では、ヨガはお嬢様たちの習い事と化しているのが現状ですが、本来は生活に必要なものとして位置づけられるものです。
ヨガの目的のひとつに、健康な肉体を維持して自分の大事な生命を守る(自分の体を粗末に扱わない)ということもあるのですが、本質的には精神面での安定、「ヨーガ・スートラ」における「心の動きの静止 (chitta vritti nirodha)」に向かい、すべての事柄の統一を目指すものです。
過去や未来の中に自分の心を置かず、現在に集中することでそれは成し遂げられるのですが、その過程には哲学者オイゲン・ヘリゲルの著作「弓と禅」の記述に近いものを感じます。
これは、禅那(dhyāna)の語源とヨガにおける八肢則の中の一つが同じであることと、禅と瞑想の関連性を考えると当然のことと言えます。
したがって、ヨガは宗教的色彩が強いものであり、その部分を抜いてダイエット目的をうたうヨガなどは、単なる器械体操の類にすぎません。
もしも、ヨガをやってみてすぐに飽きてしまったとしたら、そのような理解が出来なかったということでしょう。
ヨガについて言葉で説明できる部分はさほど多くなく、古典の記述なども非常にシンプルです。
多くのことは実践によって理解していくものであるため、ここで詳細は述べません。

宗教に対するアレルギーをお持ちの方も多いと思いますが、信仰と科学的態度が共存できるということは、多くの実例が示しています。
さらに、ヨガのいう宗教とは特定の宗教を指しません。
そのことを悪用するカルト教団もあるためそれには注意を払う必要はあります。
昨年は、相模原大量殺人や大口病院事件(目的はまだ定かではありませんが)など、優生思想が背景になっているのではないかという事件が発生しました。
このことを犯罪者個人の気質で説明しようとするのは問題の矮小化であり、こうした優生思想が多くの人に存在することは、事件後のネットの反応などで明らかです。
考えられる色々な原因があるのですが、筆者は宗教の不在もその一つと考えています。

ヨガを実践して認知症の周辺症状がかなりよくなった実例がありますが、疼痛の改善や精神面での効果など、高齢者にこそヨガをやってほしい理由がいくつかあります。
体の使い方が粗末であれば、いくら治療をしても痛みは良くなりようがありません。
ただし、高齢者は個々の体のゆがみが大きく、人数の多いヨガスタジオなどではかえって体を痛めてしまう可能性があり、実績のある指導者のもとで行う必要があります。
(筆者はinner journey yogaというつくば市の教室をお勧めしていることが多いです)
外来診療をやっていると、特に精神科でなくても、精神面で大きな問題を抱える人が来ることはよくあります。
そうした人の心はいつも過去や未来にあり、まず現在を生きていないということに気付きます。
そのことが自我と本来の心との解離を生じさせ、身体の不調の原因になっていると思う事もよくあります。
病院にかかることは、身体の問題に対する気付きを得ることになるかもしれません。
しかし、なぜそれが生じているのかに対する答えが表面的なものにとどまるかもしれません。
とくに高齢者がありのままに現在を生きる事は非常に難しく、その意味でもヨガは助けになると考えます。
また、ヨーガスートラなどの古典の読経も、精神面での効果が大きく、ヨガの座法がどうしても苦手な方にも是非おすすめしたいと考えています。


こうしてヨガの話を書きましたが、「医師」の私がかなり非科学的な話を書いているため、気分を害される方もいらっしゃるかもしれません。
しかしそうした科学者としての医師の「非科学性の一切の排除」という態度は、まだ科学的に証明されていないすべての事実を捨象することになるため、かえって事実から遠ざかる可能性があります。
例えば患者さんが何かのサプリメントを飲んだ、針灸や整骨に行ったという話を聞くと、すぐに見下す態度を取る医師がいますが、自分の治療に患者さんが満足していないと反省するべきところです。
(実際にある種のサプリメントや針灸は効果が報告されているものもあります。)
医学研究については、再現性の低さや研究デザインの設定による恣意性、ネガティブな結果を採用しないなどのバイアスが以前より問題になっていますが、数値のみでは完全に表現できない人体の反応を正確に記述することにはもともとかなりの困難があります。
それでも、臨床研究は勿論必要であり、我々は多くの研究の結果に基づいて医師として話をするべきです。
しかし実際の臨床において自分自身の処方が完全に科学的といえるかどうかを考えたときに、「非科学性の一切の排除」はかなり困難であるということが分かると思います。
ヨハネ福音書第8章3‐11節の内容は、非常に有名ですが、時代を超えて普遍的な教訓と言えます)
私は漢方の臨床をやっているため、EBMをぎっちり使うという態度が本質的に難しいのですが、それでも科学的に十分に実証されていないことが言いづらく息苦しい「メディカリーコレクトネス」をしばしば感じることがあります。
例えばある美容室の取り組みが非常に面白いと思っても、紹介するのに気が引けるということがあります。
科学的に正しいか?ということよりも、とくに美容などについては体験して効果を感じることに意義があると思いますが、美容業界も様々な意見の人がお互い意見の相違でいがみあっている状況であり、ここに医師が首をつっこむとややこしいことになるため、静観せざるをえないということもあります。
医療を否定する言説(反ワクチン理論やがん放置論など)はさすがに問題です。(たまに医師で反ワクチン派の人もいますが、その人物が往々にして例えば漢方家などであり、完全に我田引水の類だったりします)
しかし医療否定論者に多くの人が耳を傾けるのは、それが正しいからではなく「面白い」または「痛快である」からであり、それが支持されていること自体に昨年の米国で起きたトランプ現象に近いものを感じます。
「面白い」と「正しい」を両立させなければならないという、現代のリベラルが抱えているのと同質の問題を医療者も持っているわけです。
そのための一つとして、「非科学的」なものを全否定しないということも選択に入れるとよいのではないでしょうか。
医師の過度にメディカリーコレクトな態度は、ときに患者さんには不親切にうつるものであり、あくまでそれを貫くのであればそれについて十分かつ平易な説明をすることが必要です。


漢方などの代替医療を否定されている先生(私自身はその態度には一理あると考えていますが)の中には、西洋薬に対する信頼が非常に厚い人がいます。
しかし筆者は、一部の薬を除いて、薬の持つ効果は残念ながら今の所まだ高くない(かなり良くなってきてはいますが)と考えています。
漢方薬も同様です)
時折、薬が著効を示すことがありますが、むしろ例外的ケースであるにもかかわらず、多くの治療者はそうした成功体験にひきずられている可能性があります。
そのことが薬剤の検討の余地を潰していることが多いと予想されます。

例えば、脳梗塞後の治療で抗血小板剤と降圧剤が処方されている場合、それは再発予防のためであり必要なことです。
ただ、しばしばこれが予防的な投薬というより脳梗塞そのものに対して「治療的」であるかのように、医療者と患者双方で何となく錯覚されてしまっているということがあります。
しかしこれらの薬剤は発症してしまった脳梗塞をもとに戻すことはできません。
こうした事例は比較的多くあります。

新薬を使うのがより新しい治療を提供することになると考える方もいらっしゃると思いますが、発売後に有効性に疑問が提示されている新薬もあり、未知のリスクが付帯するというデメリットもあります。
例えば、私が学生の頃糖尿病の第一選択薬とされたSU剤ですが、最近はBG剤の有効性を示すデータが増えているなどもあり、長期的に考えるというのはこのぐらいのスパンになることもあります。

科学的な態度に基づく処方というのは、①目的のはっきりした、②医学的根拠に基づいた、③ポリファーマシー問題や薬剤相互作用などをクリアした、④服用のアドヒアランスが考慮された、そして、⑤長期的にみてその処方が妥当であるかを検討した、ものであるべきでしょう。
⑤が問題というのは、医学研究の多くで観察期間がさほど長くないことに起因します。

長期的な薬剤耐性の問題を考えたときに、風邪に最初から抗菌薬、鼻炎にレスピラトリーキノロンという処方はやはりあまり考えないのではないかと思います。
しかし、医療雑誌のアンケートではいまだに「風邪に抗菌薬を使う」という医師が多いことが分かります。
風邪に抗菌薬を使う事は、二次感染のリスクを考えると医学的に間違いではありませんが、降圧剤のように単剤でも二剤でも降圧目標が達成されればある程度OKというのとは違う問題を含んでいます。
風邪の二次感染のリスクは確かにありますが、比較的少数のケースについては個別に対応すべきです。
風邪に抗菌薬を処方する医師が多いため、世間的にも重い風邪には抗菌薬だと思われてしまっていることは、医療と社会との関係を考える際に問題となる点のひとつと考えます。

インフルエンザに対する一律的な抗インフルエンザ薬処方は、薬剤耐性株の発生する可能性という問題が以前から指摘されています。
抗菌薬との作用機序の違いなどから耐性株の出現は限定的という予測もあるようですが、耐性株の報告が複数あるため(タミフルの使用のしすぎに由来するものかどうかは資料から読み取ることはできませんでしたが、使用頻度のもっとも高いタミフルでのみ出現しています)、考慮すべき問題と考えます。

投与するかしないかを医師の裁量で決める現行の制度では社会的理由による投薬が多くなってしまうため、行政レベルでの規制の必要性を感じています。
そもそも、抗インフルエンザ薬を処方せずとも治るものに対し、早く学校に行きたいからという理由で処方するというのが医療的に見て正しいことなのかを、薬剤耐性問題とも分けて考える必要があります。
(予防接種は普及させるべきものですが、高価でありしかも打っていてもインフルエンザにかかる場合もあることで、すべての人に納得して打ってもらうのは困難かも知れません。)
日本だけで全世界の抗インフルエンザ薬の7~8割を使っているという記事がありますが、事実であればやはり普通の状況ではありません。
しかし日本感染症学会のガイドラインを見ても、抗インフルエンザ薬を「使わない」という選択肢がないため、これに沿った場合は処方しないわけにいきません。

長期的な思考で処方をするというのは現状では非常に難しいと思います。
しかし、予防医学が普及したあたりから、短期的な思考(その場の治療でうまくいけばいいという考え)でものを考えることは、態度として正しくなくなりつつあります。
医学知識としては、つねに医学雑誌や論文まとめサイト、新しい本などを見ていくしかないのが現状ですが、抗菌薬やベンゾジアゼピン系薬などのように、「普通に考えて良くないのではないか」というレベルで判断できるものもあります。その「普通の感覚」を時々意識的に取り戻すことが大事なのではないでしょうか。

そして、科学的な態度とは直接関係ありませんが、無駄な投薬や検査をできるだけなくしていくという経済感覚も、とくにこれから必要になると思います。
そのことを一日一日、その場で考えなおす必要があると考えます。