pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

老いの喪失と「失わないもの」としてのヨガについて

ヨガを始めてそろそろ1年半ぐらい経つのですが、ヨガとしてはやっと入口に立ったかもしれないという程度で、かなり先が長いです。序盤ぐらいで私の人生が先に終わる可能性が高いと思います。人間の寿命は思うより短いのでこれは仕方がありません。

少しわかってくると、ヨガの宗教的な側面や、修行的な側面が、次第に分かるようになってきます。修行という意味で私は実に不心得者ですが、それに近づくという気持ちは持ち続けたいと思っています。持ち続けるだけじゃだめかもしれませんが。

果たして自分の身体能力の向上のみために、やればきりがなくなるという時間を使ってもいいのだろうか?と当初は思っていたのですが、修行についてのスマナサーラ僧の話を読んで、それを体験によって確かめることの意義を現在では感じています。

スマナサーラ僧の本は数年前初めて読んだのですが、瞑想をやっているヨガの先生が師のテーラワーダ仏教協会に通っていると知り、最近改めて読んだりしています。スマナサーラさんの仏教に対する考え方こそ、私が求めていたものに近いものです。日本の仏教界ではそれが異端的なものになるのかどうかは分かりません(テーラワーダ仏教協会を激しく批判しているブログも発見しましたが、私にはむしろそのブログの方が怖かったので…)。もともとその世界にいないのでどちらでもいいことではあります。

仏教もヨガも非常に共通点が多いと感じています。

私のヨガの先生はマスター・スダカ―という著名な師に学んでいるのですが、指導の仕方を聞いていてオイゲン・ヘリゲルという人の書いた「弓と禅」という本で語られていることにかなり近いものがあると感じました。

この本には色々好きな箇所がありますが、結びの一章をあげてみると、

 

「もし彼が抵抗し難い要求にかられてこの終極に向かうならば、彼は改めて新しい道に、術なき術の道に旅立たねばならない。彼は根ー源へとあえて跳び込まなければならないのである。真理と完全に一体となった人として真理によって生きんがために。彼は再び弟子に、初心者にならねばならぬ。彼が今まで切り拓いてきた道の最後の、最も険しい部分を克服して、新しい転身をいくつか透過させなければならないのである。彼がこの冒険に堪えたならば、その時こそ彼の運命が形成されるのである。すなわち彼は不滅の真理、あらゆる真理を超える真理に、あらゆる根源中の無形の根源に、一切である無に、面々相対しそれによって呑み込まれ、その中から再び生れ出るのである。」

 

この本自体が、日本人がなかなか言語化できなかった部分を見事に言語化している本ですが、翻訳も相当大変そうです。

この一説が、ヨガの祈りでよく出てくる、

ॐ पूर्णमदः पूर्णमिदं पूर्णात्पुर्णमुदच्यते
पूर्णश्य पूर्णमादाय पूर्णमेवावशिष्यते ॥
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥

(あれは完全である。これは完全である。
あの完全からこの完全が生じる。
完全から完全が取り除かれようとも、
完全は完全のままである。)

という句を連想させます。根本にある哲学が違うので私の解釈が間違っているかもしれません。この句の解説は英語、日本語ともにたくさんネット上にもありますが、どれを読んでもあまりぴんと来ないというかなり解釈の難しい部分でもあると思います。

(もともと私は「弓と禅」という本を読んで弓道に興味を持ったのですが、現実的に身近に学べる弓道がそういう世界とむしろ相反するものであったためやめてしまったという経緯があります。)

 

さて、タイトルの話になりますが、この年になると(何歳かは秘密ですが)、一日一日ごとに失うものが増えていくことを体で感じることになります。

それは、若さであったり、自分に残された時間であったり、将来への希望や可能性であったりしますし、両親が高齢になり、パートナーも段々年を取ってきて、やがて来るお別れの時が少しづつ(さすがにパートナーとのお別れは大分先であってほしいのですが)近づいていることに気づく時であったりします。

仕事もいつまでもできるとは限りません。

今の所は比較的安定しているとはいえ、将来どうなるかはわかりませんし、業務内、外を問わず、一瞬のミスで職を奪われることもある業種です。

こういう喪失感が高齢になるとより強くなるだろうことは容易に想像できます。

そして本当に全てを失ってしまった時、自分には何が残るのだろうかと思うのです。

自分に特殊な才能や傑出した個性があれば話は別だったかもしれませんが、そうしたものは残念ながらありません。

学問に対する関心や好奇心などは、私に関していえば、職業的に必要という動機づけがあるからであり、純粋な趣味としてやっているのは語学ぐらいで、しかも将来その言葉を使うかというと、実はあまり使わないかもしれません。

自分が社会における立ち位置を失った時に、今やっている勉強も自分にとって今ほどの意味をなさなくなるでしょう。

こうして自分の外見的な部分や社会的な役割、人間関係などを全てはぎ取っていった後に、与えられた物質的なもの以外にもし頼ることのできるものがあるとすれば、それは宗教的なものの帰依に他ならないと考えています。

宗教は、日本ではとかくカルト的イメージがネガティブに捉えられるのですが、何かに支配されていない、正しい姿をした宗教であれば、人間の生き方の根幹をなすものとして不可欠なものと思います。

帰依というものは、私に関していえば、教会などに通って有り難いお話を聞いてお祈りをしたから得られるというものではなく、内的な体験に基づいて得られるものです。

その意味で、ヨガというのは間違いなく宗教であり、帰依する対象です。

体の痛みや苦しみ、喪失感に悩むご高齢の方に、仏教の本を読んだり、自分がいいと思う宗教の寺院や教会に行くことをよくお勧めするのですが、ほとんどの場合実現しないのは、その方にそうした習慣もなければ、宗教に帰依する内発性自体がないからです。

仏教の本を読んだり、意味のよく分からない文章を写経しても、それが心に響くためには、それに共鳴できる心の素地が必要なのだと思います。そうでないかぎり、それらのものは「いいお話を聞いた」感覚を与えるだけで少し後には内容すらも忘れられてしまい、フラットな情報として消費される対象になってしまうのです。

高齢になってからそうした素地を積むよりは、より若い時から始めた方がよいと思いますが、身体的な痛みに対する効果や精神面での効果があり、また体の柔軟性がなくても、運動に慣れていなくてもできるものでもあるため、高齢者がそうした「いいとこ取り」をするためにヨガをやるということでも全くいいかもしれないとも思います。やり方を大体把握すればあとは大したお金をかけずにできるものでもあります。

ただし、その「いいとこ取り」が強調され過ぎてしまって、ヨガが単なるフィットネスやダイエット、健康法のカテゴリーに分類されて相当誤解されていることは、ちょっと残念ではありますが、宗教的部分にアレルギーの強い日本人に受け入れられるのに、ある程度仕方のないことかもしれません。

与えられたものが時とともに一つずつ失われていく、ということは、老いていく人をより絶望的にさせるかもしれませんが、失われずに自分の中に残るものが一つでもあるということは、人をより強くするものではないかと考えます。