pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

久坂部羊 「ブラックジャックは遠かった」に見る、医師が人の心を失っていく理由

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このエッセイ集は、医師兼小説家である久坂部羊さんの大学時代が自身の大学時代を回想して書いたものです。

久坂部羊さんは、現在活躍中の医師兼小説家の中ではもっとも才能のある人ではないかと個人的には思っています。このエッセイも、ユーモアもあり、文章もうまいと思います。さすが大阪人という気もします。

実際に「破裂」などはドラマ化されました。あのブラックなテーマ(医療費抑制のために国が高齢者の突然死プロジェクトを密かに進める話)をよくNHKがドラマにしたものだと思いますが、俳優の起用がよかったこともありなかなか面白かったようです。

久坂部さんの小説の多く(違っていたらすみません)は医療がテーマであり、かつ「廃用身」などは結構グロテスクな話でもあり、よく考えるとブラック・ジャックと言えるのかもしれません。(このことがわかる話がエッセイの後半に出てきます)

しかしブラック・ジャックにある分かりやすいヒューマニズムがなく、読者を突き放す無機質さがあるため、全ての人に受ける作品ではないはずです(全ての人に受ける小説はありませんが)。私は「破裂」を読んだとき、人物描写がやや浅いと思いましたが、それがテーマの小説でもないためこれは仕方がないかもしれないと思いました。

医療者が読むと語られている内容に頷くしかないような所が結構あるのですが、それ以外の方が読んでどう思うのかが想像できません。

 

久坂部氏が学生の頃、医学の道を歩むものとして、熱い情熱を抱いて勉学にいそしんだ…かというと真逆で、まったく勉強せずふらふらしていたエピソードが結構出てくるため、医学生がこのエッセイを読むと安心するかもしれませんが、今の医学生のカリキュラムは久坂部氏の頃はおろか私の頃よりさらに厳しくなっているらしく、もはやそうもいかないかもしれません。

医学生の多くは、中高時代に一生懸命勉強して青春を潰しており、さらに医師になると仕事で夜遅くまで帰れず休みもない日の連続になるため、大学ぐらいはちょっと遊びたいと思うのが人情だと思います。

しかしそうやって私自身も学生時代にモラトリアムをやってしまった結果、あとでもっと勉強しておけばよかった(特に基礎医学)と後悔するはめになるため、モラトリアムは教養の頃だけでよいかもしれません。(教養の先生方には申し訳ありません)

学生の頃遊んでしまい、各地を放浪したりして授業をさぼり倒した久坂部氏のエピソードは、そのまま当時の大阪の空気感をもよく伝える内容ともなっています。大阪で学生生活というのは色々な文化に触れるチャンスも多く、さぞ楽しかったでしょう。というか、ミスタードーナツでバイトした時の笑えるエピソードは、大阪以外ではまずないと思います。ネタ作りには格好のバイトだったかもしれません。

あと、学生時代に知り合った奥さんとのなれそめも傑作です。詳細は本に譲りますが、奥さんがこの本を読んでよく怒らないなという内容で、その辺りも大阪人だからということになるでしょうか。

そうしたお気楽な学生だった久坂部氏が、医師の持つ矛盾に気づき始めるのが、解剖学実習のあたりからです。

人体解剖の詳細は本に書いてある通りで、解剖を経験したことがない方にはショッキングかもしれません。ここまで書くと解剖に献体する人がいなくなるのではないかと心配ですが、とにかく医学部の人間が解剖について部外者に語るというのは、タブーな所があり、それは我々が人間の体をもののように扱っているからだという自覚があるからです。

献体された方や実験動物に対する供養として慰霊祭があり、いいことだとは思うのですが、解剖実習でやっていることに変わりはありません。

この解剖実習が、ある種のイニシエーションなのではないかと氏は書きます。非常にお恥ずかしい話ですが、不器用な私は時間内に解剖を終えるのが精一杯で、ご遺体について感慨にふける時もあったものの、臭いと作業に没頭することで終わった実習でした。焼肉が食べられなくなることはないですが、ホルマリン臭が髪について昼食がまずくなります。人体模型でもいいはずなのにあえて死体にするのは、確かにイニシエーション的な意味合いを付与されているのかもしれません。

私がその後医師になって、病理解剖というもう少しハードルの高い解剖に立ち会う場面も出てきましたが、もはや何とも思わなくなっていました。ある先生が携帯で臓器の写真をたくさん撮っていたのは当時かなり引きましたが(それをポケットに入れて持ち歩くので…)、スマホ時代になってみるとごく普通のことに思えます。

この「何とも思わない」という感覚がある意味かなり特殊です。

さらに久坂部氏は臨床実習で、患者さんを実験台のように扱う実習そのものに(必要とはいえ)違和感を覚えていたようです。学生に何度も触診されたあとこっそり泣いていた末期の乳がん患者さんのエピソードはかなり胸が痛みます。

 

医局に入局してからも、久坂部氏は色々な矛盾に気づきはじめます。

治る見込みのない患者を一般病院に送って切り捨てる大学病院の態度。

患者さんのためというより、学会発表や自分の腕をあげるために手術を強行する(そしてそのことに自己欺瞞をあまり感じない)医師たち。

本に書かれていませんが、セクショナリズムやポリファーマシーなど、現場で感じる矛盾などはそれこそ山のようにあり、どこかを見なかったふりにしないととてもやっていけないはずです。

どこかを見なかったことにしているため、医師の態度は、患者さんからすると、不親切であり、何かを隠していることに気づいた人は不信感を持ちます。

反精神医学の某氏やがん放置療法の近藤某氏が世の中でこれだけ注目されるのは、こうした欺瞞に患者さん側が薄々気づいているからではないかと思います。

これらのことは大学病院である以上不可避であることは久坂部氏も分かっているものの、麻酔科医として働いた経験で外科医の欺瞞に改めて気づく場面もあり、こうした医療の矛盾に対する強い問題意識が、久坂部氏の作品の原点になっているのではないかと個人的には考えています。

久坂部氏は医療の欺瞞を一方的に糾弾しているわけではないのです。氏は医師と患者の双方の言い分を知っています。

本にも出てきますが我が儘で自分のことしか考えていない患者や家族に医師が振り回されるというのも事実です。そのため多くの(世間知らずでナイーブな)医師は、途中で志を失って自分のライフスタイルを優先するようになり、患者から休日に電話がかかってきても居留守を使う開業医(本の中に出てきます)のようになるのではないかと氏は書いています。

久坂部氏の医療小説は、そうした医師(医療者)と患者の間の橋梁になりうるものだと思っています。

医師の方で、医師・患者間のコミュニケーションギャップを改善するために本を書かれている方もいらっしゃいます。とてもよいことだと思いますが、文章を読むとどうしても医師側のエクスキューズに偏っているように見えます(見えなかった医師の方は、多分医師アタマが石アタマになっているはずです)。

それよりも久坂部氏の本の「橋梁」というテーマに、私はかなり共感しています。氏は外科医としてのエリートコースからは外れてしまった(ごめんなさい)市井の医者だと思いますが、だからこそかもしれませんが、非常に教養の深い方のようです。

医療を考えるのに、医学知識だけでは語りつくせないことが当然のごとくあります。それは対象が人間であるからです。

そして、病気だけを見ていては本質的な部分の理解は医師アタマでしか理解できません。そうするとどんどん、医師は唯我独尊になる傾向にあります。

医師と患者の関係は、医療に関しては車と歩行者の関係です。ゆえに氏の医療小説も医師に対する問題提起がメインであり、受ける層も実は医師ではないかと思いますが、是非医師だけではなく多くの人に読んでもらいたいと考えています。