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pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

安富歩「誰が星の王子さまを殺したのか」に見る、問題の普遍化の困難さ

www.amazon.co.jp

前記事に引き続き、安富歩先生の「誰が星の王子様を殺したのか」という本を読んでみました。

 この本の要旨は、「星の王子さまはバラの花にモラルハラスメント(以下モラハラ)を受け、精神的に病んでしまい最後に自殺してしまった」というもので、「あれ?そんな話だったっけ?」と思いもう一度「星の王子さま」をざっと読んでみました。

実は私はフランス語はほんの少しづつ数年勉強していて、「自分で訳す星の王子様」という本を持っています。注釈つきであれば原書を読めるぐらいのフランス語の知識はあるのですが、残念ながら私には内藤訳以上にこの本を訳すだけの文学的素養がないため(何のためにフランス語をやっているかと言うとワインやフランス料理に興味があるからです)、日本語版を読みました。

私が「星の王子さま」を読んだのは小学生の頃で、確かその時は「王子様は世界にたった一つしかいないバラの花を置いてきてしまったことをとても悔いていて、最後には愛するバラのもとに戻った」という理解だったのですが、もしモラハラが「星の王子さま」のメインテーマだったとしたら、小学生の私に理解できるはずがありません。そもそもその時代にモラハラという概念は一般には知られていませんでしたし。

ちなみにこの安富本のアマゾンレビューの中には「apprivoiserという言葉の解釈が間違っている」「解釈が強引でこじつけ的な箇所がある」などの指摘があるようです。

言葉の解釈については apprivoiserという言葉がこの物語のキーワードであるというのは研究者間の共通認識であるようで、星の王子さまにおける用法についてのブログ記事も検索するといくつかあります。

生きたフランス語の中でapprivoiserという言葉がどう使われるのかは言葉とその文化に慣れ親しんだ人の方がよりよく分かるでしょう。

しかし一方、ある言葉に対するイメージや定義はネイティブでも意見の分かれるものであり、この場合は「星の王子さまにおける用法」を物語のコンテキストから理解するのでよいと思います。ある方が「ちゃんと調べもせずに書いている」とコメントされていましたが、この物語のキーワードであることは著者も認識しており、調べていないと言うことはありえません。

 

問題は後者の指摘で、これは自分がモラハラにあったことがある、あるいはそういう問題を認識しているかどうかで、こじつけに見えるかどうか意見が分かれるということだと思います。問題認識のない人にとっては、この話は王子さまとバラとの美しい愛の物語なのですが、一見美しく分かちがたい関係の中に支配・被支配の構造を見いだせる人にとっては、バラと王子さまの関係はまさに何かの罰ゲームであり、結果的に傷つき壊れてしまった(どのように壊れているかは本に詳述されています)王子さまが自殺する最悪の結末を迎えたという話になります。

ネットで「王子さまは自殺したという解釈は間違いであり、王子さまはバラのもとに帰ったのだ」と書いている人がいますが、あの部分をオリジナル本とフランス語原書で読むと幾通りかの解釈が可能であることが分かります。どれかひとつが正解でどれが間違いとは言えないのではないでしょうか。

 

バラは王子さまに執拗にモラハラ(コントロール欲求と言ってもよい。この言葉は依存症の構造を考えるときの一つのキーワード)を繰り返し、疲弊した自分の星から逃げたした王子がさまざまな経験をするなかで、狐との出会いは非常に重要な部分です。

オリジナルでは狐は、目に見えないものが重要であることを王子に話し、狐との対話を通して王子さまがバラへの愛に思いを馳せるという助言者の役割を果たしているように見えますが、安富氏の解釈では、狐はモラハラ問題における専門家(例えばカウンセラーや医療者など)のような役割を果たしており、狐という、いわば世間的・常識的なな価値観を代弁する人物(狐ですが)にさらに追い打ちをかけられ二重のモラハラ被害を被った王子さまは、精神的に決定的に追い詰められることになります。

王子さまがバラや狐にモラハラを受けたということが安富本ではかなり論理的に(論理的であるということほど、実は注意すべきものなのですが)、文脈をきちんと読み込んで解釈されています。そして、そのように解釈できる余地を残した名作が「星の王子さま」だと安富氏は考えているのであり、本の内容はオーセンティックな解釈の優劣を競うものではありません。

読む者に対し、読む者の心の中にあるものを写し出す鏡のような文学があるとしたら、それは間違いなく名作です。

 

安富氏の解釈では、バラをあまりにも悪者にしているようにも見えますが、想像で書かれてはいるものの、バラも幼少期の近親者からの辛い仕打ちなどがもとで他人にモラハラを仕掛けることでしか自分の存在意義を感じられなくなったなった被害者なのであり、存在自体がが空虚なもので(王子さまが人の姿なのにバラが花というのは、いかにも中身がない感じがしますね)あることも書かれています。

 

星の王子さまがモラハラで自殺したという解釈に、この物語に対して憧憬を持っている多くの人は、違和感を持つかもしれません。しかしそうしたストーリーの美化こそが物語に出てくる支配・被支配問題の隠蔽であり、問題の本質を分かりにくくしている原因だと安富氏は指摘します。

ある人は「安富氏はフランス人の恋愛を知らない。この理屈だと全ての男女関係はモラハラになる」と書いていましたが、フランス人に限らず日本の作品にだって、モラハラなのか真の愛なのか線引きが難しいものはあるのです。すぐに思い付いたものを挙げると、業田良家の「自虐の詩」は完全にモラハラだと思いますし、谷崎潤一郎の「春琴抄」も相当きわどく、モラハラを受けた佐助が春琴の顔を火傷させて自らを失明させるという狂気の展開を取ります。

そしていずれの作品でも当事者間の関係は美化されます。漫画や文学作品だからとは言え、それは読む人の思考に影響するものです。それがいけないということではなく、そういう意識を持つ必要があると思います。

安富氏がこの物語をモラハラの話として読んだのは、安富氏自身が両親から、また離婚した元妻から、バラが王子さまにしたようなモラハラを受けたことが影響しています。氏はそのようにしてなってしまった「男らしさの病」から逃れるために女性の装いをするようになったのかもしれません。

その装い自体が秩序を互いに強いることでようやく成り立っている世間に対するテロであるという話は前の記事に書きました。それは現実からの逃避ではなく、安富氏の戦いなのだと思います。

安富氏の受けたモラハラほど露骨でなくても、多くの人が立場や役割を押し付けられ、その中で空虚な偽りの自分を生きており、そのひずみが社会のあちこちで問題を起こしていると氏は指摘しています。

モラハラに特に問題意識のない人にとっても、星の王子さまのこうした解釈は、社会を大きく取り巻いている根源的な問題を問う糸口となるかもしれません。

少し気になったのは、バラも元々被害者であるとは言え、王子との関係では加害者であり、王子の受けた傷の深さを強調する内容になっている点です。それがメインテーマだからしょうがないのですが、じゃあバラを選んでしまった王子様の責任はどうなの?というツッコミを入れたくなる程度には私は性格の悪い人間です。

アマゾンレビューで安富本に好意的なコメントを寄せている人達はおそらくモラハラの当事者であり、それは全く悪くないのですが、「毒親」などの言葉に共感する人にしかわからない話になってしまうと「いつもの話」の繰り返しになってしまい、そこからの展開がなかなか見えません。

幼い頃親からモラハラを受けたという人は、私も含めかなりの数いるはずですが、親を恨み関係を断絶することは、解決の一つではあっても全てではありません。

親の世代が解決できなかった問題を自分がそのまま引き継いだ問題として、自分が違う人生を生きることによって解決の糸口を探るという考え方もあり、その場合親との和解はいずれかの時点で必要となります。

これを書くと「あなたの親はまだ理解のある人だったのでしょう。私の親は全く理解してくれなかった」という人がいるかもしれませんが、そういう話にするとこの問題が普遍化しません。問題意識を共有する者の間に分断を生むだけだと思います。

そして、「毒親」と関係を断つ人たちの中には、本当に危険なレベルの毒親だったため断絶を余儀なくされている人たちももちろん多くいますが、関係を長く断つにつれ心の中で形成された「架空の毒親」を激しく恨んでいる人もいます。実際の親はそこまで毒親でもなくなっているかもしれないのですが。

そして親が、実は自分のことを愛してくれていたのだということが関係を構築する中で明らかになった瞬間に、架空の毒親は心の中からいなくなります。そうなれば心の中の親の声にもう従わなくていいのです。

もしもこの文章を読んで、「親は敬わないといけない、関係を回復しないといけないという世間の風潮が許せない」と思われる方がいらっしゃったら、その方はまだ多分心の中に架空の親が存在しており、その親がそう言っているのです。私はしなければならないとは一言も言っていません。

※私の親戚にも親と関係を断絶している人がいるのですが、実はこの部分はかなりその人個人にあてて書いています。

 

話が脱線したので元に戻しますが、よき家庭、よき恋人関係という理想や秩序を保ちたいという人にとって、星の王子さまは美しい作品であってほしいはずです。

例えば安富氏のパートナーである深尾葉子氏の著書にある、「タガメ女」に搾取される「カエル男」たちは、facebookに家族写真をどんどんあげて「こんなに家族を愛している自分」をアピールするわけですが(facebookに家族の写真をアップするのが悪いと言っているわけではありません。問題はそれに対する態度とか頻度だと思います)、実は不倫しているというオチがあったりして、そういう関係というのはいかにも空辣です。

でも、結果的にfacebookには仲良さそうな家族の物語があふれかえってしまうことになり、皆それに安心している所があると思います。

しかし実際にはどうなのか。

そして世の中にあふれかえる美しい家族や恋愛の物語の中に、虚構や美化がないのかどうか。

この本は独特の解釈により、そのことを問うものではないかと思います。