pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

安富歩氏「ありのままの私」と私自身の装いについて

東大・東洋文化研究所の安富歩教授は、女装して「アウト&デラックス」に出演したことで認知度が上がり(多分)、最近自身の女装についての本も出版されました。

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本の巻頭に女装された安富先生の写真集が掲載されていますが、綺麗だと思います。とくに表情が自然でよいと思います。安富先生がメディア慣れしているということもあるかもしれませんが、私はカメラの前でこういう自然な表情がなかなかできません。

足を露出するスタイルも多くの女性が苦手とするものですが、そういうスタイルも軽々と(わかりませんが)こなしているように見えます。

本を読んで分かったのですが、安富先生は元々おしゃれな方だったようです。男装していた頃から一着10万円のスーツを着ていたとのことですが、私の周囲に限って言うと、そういう人はあまりいません。

女装を初めて一つ一つ、細部にこだわっていくあたりの経験談が本に書かれていますが、女性らしさは細部に宿るため、これは必然的にそうなると思います。こだわると非常に装いに時間もかかりますし、年を取るとさらにあちこちやることが増えていくので、大変といえば大変であり、楽しいといえば楽しいものになるかもしれません。

私の周囲の男性たちは「服にお金をかけるなんて勿体ない」「自分の容姿はたかが知れている」などの理由で、いつ見ても同じような服を着ています。

私も昔はそうでした。

おしゃれに興味がないわけでもなかったのですが、周囲と同じように細部に女子力を磨かない、化粧をしない、服は母のおさがりなど興味のないふりをむしろしていたため、その後結婚を考える年齢になってから苦労した話を前に書きました。

この「おしゃれに興味がないふり」というのは、おしゃれ=ナルシズムの発露であり、自分の中に確実にあるナルシズムを否定していたいという私の歪んだ思考から起きていたものでした。

安富先生の写真を見ていると、屈託ない(かつ病的な意味ではない)ナルシズムの開放をそこに感じ取るのですが、その姿にネガティブな要素は感じません。むしろ上手く手なづけているという感じがします。

みんなが競って磨いていた女子力に何の意味も見いだせなかった私(かつ、実際に女子間で起こっていたマウンティングや複雑な人間関係にできるだけ鈍感でいようとしていた)は、結婚という「争奪戦」にその意味があるということに気づかなかったわけですが、結果的に今の連れ合いと逢うことができたので、自分の生き方としてはこれでよかったのかもしれません。

就職して数年たってから、私はようやく自分で服を買うようになります。

(以下、少しだけ私の好きなブランドの話になりますが、出てくるブランド自体をご存じない方も多いと思いますので、飛ばし読みしていただければと思います。)

昔から好きなブランドはあります。

その中で今も続いているブランドもありますが、まずシビラは飽きてしまって行かなくなりました。

もう一つ好きだったヴィヴィアンタムは、当時はサイズが細身で、明らかに長身で細身の若い女性向きのブランドでしたが、さすがにそれでは顧客があまりいないからか、最近は中年でも着られそうな服も多く、かつサイズが大きくなったと思います。お値段も高いので大人向けの服だと思います。

ヴィヴィアンタムはチャイナ服デザインのものが多いのですが、チャイナドレスは細身で長身の若い女性が似合うもの、という見方は中国国内でも根強いようです。

実際、そういう女性がチャイナ服を着るととても似合います。

しかし、自分でチャイナドレスをオーダーして着るようになって分かったのですが、特にノースリーブとか露背ものは、上半身にボリュームがないと貧相に見えます。チャイナドレスはアジア人のための服であるはずですが、実際には欧米人のドレス風にアレンジされているため、欧米人に近い体型の人に向いている服なのです。

中国国内でいうと北方の人は似合いそうですが、中国で人気のある細身で柳腰の女性に必ずしも似合うとは限りません。

ヴィヴィアンタムは、肯定的にとらえれば、チャイナドレスの持っている「似合うステレオタイプ」を少し破壊したと思います。かわいらしいデザインなら背の低い人でも似合うはずですし、本来はぴったりしたサイズで着るチャイナ服ですが、ヴィヴィアンタムの既成チャイナ服の中にはゆったり目に着られるものもあります。そうしたブランドは昔のコキュなど他にもあるのかもしれませんが、普段ファッション雑誌をあまり読まないためあとはケイタマルヤマぐらいしか思いつきません。そして、ケイタマルヤマのチャイナドレスが似合う人となると、やはり長身で細身の若い女性というステレオタイプになると個人的には考えています。

ヴィヴィアンタムはいいと思いますが、服の値段が高いのと、最近どうもワンパターンなデザインが気になるということで、やはりあまり買わなくなりました。

今私がかなり気に入っているのは、zadig et voltaireというブランドです。

前2ブランドとかなり方向性が違うのですが、何故好きになったかというと、連れ合いがロック好きで、ロックなテイストのあるカジュアルブランドに私自身が引かれたからです。

自分の服なのに他人の好みにつられているわけですが、そういうものは私の生活の中で実はかなりあります。それが自分ではないかというと、そういう風につられるのも自分だと思います。自分がいいと思ったものは受け入れ、そうでないものはスルーしています。

 

安富先生の女装については、SNSで数回書いていますが、存在自体が社会に対するメッセージになっているという点で、そうした思想の行動化が「ありのままの私」になったのだと理解しています。

これだと「思想=私」になるので、今の姿が本当に「ありのままの安富先生」であるのかどうか私にはわからないのですが、非常に勇気のいる行動だったことは容易に想像できます。

連れ合いは「あれはテロ」だと言うのですが、ある意味そうかもしれません。

例えば私の中にも男性的な部分があるのですが、残念ながら、私が男装してもそこまでの破壊力は生まれません。

私が別に男装したくないということもあるのですが、そもそも成人男性のサイズで私が着られる服がほとんどありませんし、あったとしてスーツとかカジュアル、ロックテイストなどステレオタイプなものしか思い浮かばず、あまりウキウキしません。

zadig et voltaire自体ユニセックスなデザインが多いのでここから男装にするインパクトもありません。

そのことは安富氏が女装を始めたときのウキウキしている様子と真逆であり、男性社会におけるファッションというのが、少数のおしゃれな人を除いては「無難」「見苦しくない」「場に沿った装い」など、ほぼ消極的理由で選択されていることも、安富氏の本を読んで改めて気づきました。

装いが社会性である男性と違い、見られる存在である女性の場合、選択肢は無数にあります。かつては日本も画一的に流行するファッションや髪形などがありましたが、最近はより多様化していると思います。韓国などでは流行の髪形やファッションが明確にあり、どこに行っても同じような服しか売っていないという話も聞いたことがありますが、時間の問題で日本のようになると思います。

女性の現代の服飾については自由すぎて、選択することと、それに対する責任を自分で負うことになるというものですが、これは現代の女性の生き方そのものとリンクしているように見えます。

私の男装にはインパクトがないのは、私自身が男性的な社会で生きているからかもしれません。そこに生きていながら、元々好きな女装を比較的自由に楽しめるというのは、自分の特権なのかもしれません。

 

安富氏のいでたちはかなり目につくと思います。背も高い方のようですから、遠くから見て分かるぐらいだと想像します。たまにスタジオなどで女装をやるぐらいなら大したことないと思いますが、ずっと女性の装いで暮らすのとはかなり違います。

その安富氏を見て氏に対してどういう態度をとるかで、相手の本音や素性が垣間見えてしまうという意味で、氏の女性装は対人コミュニケーションにおける「テロ」なのかもしれません。

または、無駄な人間関係を減らしたり、コミュニケーションをとる必要のない人間とかかわらないで済むなどの利点もあると思われ、縁切りのような意味もあるのかもしれません。

 

本は全体に平易な言葉で書かれていますが、網野善彦の無縁論やテレビの差別構造など興味深い話が色々散りばめられています。この辺りは私が書くより本を読んだ方がよくお分かりいただけると思います。

一つだけ、性同一性障害の障害(disorder)という言葉を「無秩序」と訳されていますが、その部分はやはり「心身の不調や軽い病気、疾患」などの意味でいいのではないかと思います。精神疾患で「障害」と名前のつくものは他にも摂食障害、パーソナリティ障害、強迫性障害などありますが、本来は障害というよりは「その行動または言動などによって本人や家族が悩んでいたり困っていたりする」という意味ぐらいが適切と思われ、ただそれを適切な熟語に集約するのが難しいのだと思います。

「違和」に置き換えるのはよいかもしれません。