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pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

岩田健太郎先生著:サルバルサン戦記 ~秦佐八郎 世界初の抗生物質を作った男~

注意:この記事は本の感想を書いていますが、できましたら本を読んだ後にお読みいただくと、私の書いていることが少しだけお分かり頂けるかもしれません。

 

まず書いておく必要があるのは、私は日本人で父母も普通に日本人ですが、実は日本語が苦手です。

中学高校と国語の成績は5でしたが、それは単に試験の回答を推測できたからであり、日本語力の高さを意味しません。

私がこれまでにいくつかの外国語を勉強してきたのもおそらく、日本語の理解、または日本的なコミュニケーションにあまり自信がないことの劣等感に由来しており、従って他人の文章に対して何かを語ったとしてもあまり正しくないかもしれません。

そもそも大学を出てから、専門書と趣味関連の本以外さっぱり読まなくなってしまいました。中国語では時々読みましたが、日本語の小説を最後まともに読んだのがいつだったか思い出せません。

大学の時には小説を結構読んでおり、好きな小説は国内外で色々ありますが、国内ではどの作家が印象的だったかでいうと、塩野七生開高健です。

よく考えると両氏とも海外生活が長かったり海外を旅する人だったりで、純粋に日本的と言える作品を書いているのか、少し微妙なところがあります。

連れ合いに二人の作品をすすめてみましたが、いまいち反応がよくありません。

私の連れ合いはかなりの読書家で、中学の時から相当本を読んでいたようです。そこで人生観が形成されてしまったことがよかったのかどうかはともかく、本人は確かに文章のうまい人です。

その連れ合いに宮本輝をすすめられて読んでみました。

確かに話も面白く文章も軽快、非の打ちどころのないような文体なのですが、あまりに欠点がなさすぎて面白くないとも思いました。あと安部公房も勧められ、素晴らしいことは十分に分かっているものの、日頃ない頭をフル回転させて仕事しているため、自分の時間にはもう少し楽に読める本が読みたいわけです。(こうしてどんどん非インテリになるわけですが、さすがに反知性主義まではいきません。)

人は恋する相手の欠落に恋をするらしいのですが、不完全なもの、自分だけがわかる気がするというものに、私もやはりひかれるようです。

 

さて、この本の著者である神戸大学の岩田健太郎先生は、訳書も全部集めると本棚2段埋まるぐらい多数の著書を書かれています。

医学書としては、「岩田先生の医学書」という1ジャンルがすでに存在するような気がしています。「映画」と「ウディ・アレンの映画」ではニュアンスが違うと思いますが、そういう感じです。ネットで調べると色々出てきますが、シンパの人とアンチの人(言い回しが古いか)がいるようです。

私は感染症を専門にしていないため、岩田先生の本の正しさを公正に評価できるだけの知見を持ち合わせていませんが、感染症の治療は思われているほど簡単ではないというのは日頃から痛感しており、ある主題にさまざまな異論が出ることも容易に想像できます。

その岩田先生ご自身が「集大成」とブログで書かれていた本なので、早速買って読んでみました。

 

「サルバルサン戦記」は世界で初めて抗生物質を作成し世に出すも、その薬自体の副作用の強さなどから使われなくなり、作成した本人も世間的知名度では野口英世に及ばなくなってしまった秦佐八郎という人物の伝記です。

バルサルタン戦記」に一瞬見えてしまうのは、私の頭が何者かに洗脳されているからでしょう(でもバルサルタンって薬の名前としてはかっこいい名前でしたね。)。

最初私は、「天皇の料理番」のような、明治の熱い男が欧州に行って差別や文化の壁に苦しみながらも目的を達成する、そんな構成を考えていましたが、読み終わって言葉に表現しにくい不思議な感覚を味わっています。

話はまず小説風に始まります。秦と、師となるエールリッヒ先生との出会いは写実的に描かれます。学問が国境を超えるのは当時もそうであり、エールリッヒ先生には東洋人に対する差別的な所は感じられません。

エールリッヒ先生の話し方も独特というか、童話に出てくるおじいさん風です。

このまま小説で話が進むのかと思いきや、解説がいくつか入ってきます。

小説として入れていいバランスを結構超えています。ただしこの解説のおかげで、いくつかの歴史的事実や解釈を知ることができます。

学会発表が形式的なものになりがちな日本と比して、「弁証法」という「対話」によって思考を掘り下げていくのがドイツであり、それが秦の思考にも影響を与えるというくだりがありますが、ここは実は今の日本の学会発表に対する著者のアンチテーゼ(弁証法です)だと思います。

さらに本筋とは関係ないものの、当時大流行した脚気の原因が白米であることを否定して多くの発病者と死者を出した森鴎外の失敗が、彼の権威主義的態度、かつ強いコンプレックスに基づいたものであるとして、鴎外自身の思考経路をたどっています。フィクション部分ではあるものの「本当にそう思ったのかもしれない」と思わせる合理性があります。

ただし森鴎外は後年、脚気対策に全力を尽くして罪滅ぼしもしたようです。

 

話は小説に戻ります。

この話は「戦記」なわけですが、主人公の秦は「進撃の巨人」みたいな少年漫画の主人公などとは違い、超然としてどこか浮世離れした人物です。エールリッヒ先生の所に行くまで南独でビールやワインを楽しんだようですが、外国の情報が乏しい当時なのに妙に旅慣れた感じがします。

秦には日本に妻がいますが、エールリッヒ先生行きつけのビアホールでエリナという女性と出会います。

このエリナという人物が村上春樹の作品に登場してきそうな話し方をします。というか秦も、ちょっと村上さんの世界の住人と存在感が近いかもしれません。

そもそも、明治の男にしては秦は現代的すぎると思うし、思考に外来語もよく出てくるし、当時の人が「天然」とか「ぶっとんでる」とか言うかなあ?と思いながら読み進めるのですが…

この違和感が決定的な「確信犯の仕業」だと分かるのが、秦が同期の野口英世と酒を飲んでいるシーンです。

世間的には有名ですが業績のほとんどが後世で否定された野口英世

作品中で彼は、ハッタリをかますのが上手く、劣等感をバネにしてのし上がっていく人物として描かれています。森鴎外にしても野口英世にしても志賀潔にしても、作品中の人物は、雲の上の人・北里柴三郎を除いて、医局に一人はいそうなタイプです。

その野口英世が、酒に酔ってべらべらと、自分が後世に千円紙幣の人になることや昭和のこと、2回の世界大戦のことを話し、そしてやおら出てきた石川啄木が「サラダ記念日」やネット社会のことを話しだすのです。

何じゃそりゃあ?

時間の軸がどんどんぶれるというか、この話の話者が著者なのか秦なのかよく分からなかったけど結局著者だよねこれ、という展開になります。

さらに、終盤で秦は必死に実験を続け、ついに世界初のスピロヘータに対する抗生物質・サルバルサンを作成するのですが、その原動力がなんと、エリナが脳梅毒だったからという驚きの事実が明かされます。

秦がそれに気づいたのは、彼の手の震えを手を握った彼女が分からなかったからという、医療サスペンスのようなエピソードも挿入されます。

さらにそこで「彼女の病気が薬で治ったら彼女ではなくなるかもしれない」という、神経内科医としては「うーん…ちょっと違うんでは」な秦の苦悩が吐露されます。まともに突き詰めるとこの話だけでスピンオフが一つ書けるかもしれません。

最終的にエリナがどうなったのかを書かなかったのは小説とするなら大失点ですが、最早これは普通に小説というのではないような気がしてきました。

(もし秦が「あえて直さなかった」とするなら、医師としては完全にアウトなので、多分薬は使ったとは思います。)

終章で、すでに亡くなったエールリッヒ先生が秦の枕元に現れ、その後のナチスの台頭や第二次世界大戦における人体実験、天才・アインシュタインが結果的に原爆のアイデアとなるものを提示してしまったこと、その後の抗生物質の変遷やミドリ十字血液製剤で多数のエイズ患者を出した話などを語りますが、ヒトラーのみが特異なのではなくネットで排外主義者たちを見ていても根っこは同じだという話もします。岩田節ですね。

もし秦が本当に明治の人間だったら「はあ?」な話でしょうが、秦は特に何も思わなかったようです。

ラストの一文は小説としてとてもいい終わり方です。

 

この話が普通に小説ではないとしたら何なのかというと、個人的解釈ではこれは一種の寓話です。

秦やエリナ、エールリッヒの語る一つ一つの言葉が、岩田先生が普段から著作やネットで語っていることに由来しています。

そういえば「嫌われる勇気」の著者はアドラー心理学ですが、よく考えたら秦佐八郎とアドラーはライフタイムが重なるんですね。

本の中の秦佐八郎は、実は岩田先生ではないかと思います。会ったことはありませんが岩田先生に対して私が勝手に抱いているイメージに似ています。

エールリッヒはたとえサルバルサンが世に残らず自分たちの名前が忘れ去られたとしても、研究に身を投じた自分たちの仕事には確かに意味があり、後の抗生物質研究の嚆矢になったと言います。確かにその通りです。

世間的な評価には繋がらなかったけど他者の評価を基準にせず、自分の基準で意味のある仕事をした、ということであれば、世の中の多くの医療者が自分の領域で頑張ればやはりそのような仕事ができるかもしれないということになります。

天皇の料理番」の記事で、「篤蔵さんはベル・エポックに生きた」と書きましたが、秦佐八郎もやはりベル・エポックに生きたのだと思います。第二次大戦前ですし、著名な文化人を多数輩出した時期でもあります。

何よりもそれよりも、現在耐性菌が多量に出現し、画期的な新規抗菌薬の開発が難しいという、やることはたくさんあるものの、従来的な意味での感染症治療の進化という意味では低迷している現代において、「まだまだものすごくやりがいがある」当時の状況はハネムーン期です。

その後もっと上手くやれば現在の状況はなかったでしょうが、公衆衛生的問題や後世の医師の怠慢など色々あって現状になってしまいました。

 

この本が寓話だとしたら、寓意があるはずですが、上述のようなことに加え、現在の日本の医学界に対する強い批判がもう一つの寓意です。今の医師同士のタコツボ的愚痴みたいなシーンもありますが、ご愛嬌でしょう。

現代の日本の「医学界」の問題が思想的な意味では100年以上前に起きている問題と変わらない、変えなくてはいけないという強いメッセージが随所に込められていると思います。

岩田先生は最近、化学療法学会でご自身の本が販売自粛されたことに抗議されていますが、問題の重大性というより、「医学界ってこんなにタコツボ」であることを学界の外の人達に知らせるという意味でも、問題が決着するまで抗議を続けた方がよいと思います。ちなみに神経学会で岩田先生の本を見ませんでしたが、分野違いなのと、回ったブースが全部ではなかったのでどこにもなかったかどうか分かりません。

全てのエピソードがドイツのアウトバーンのように超高速で過ぎていくのが、「診断のゲシュタルトとデギュスタシオン」で岩田先生が壊死性筋膜炎について書いていた、あのがやがやした雰囲気を思い出させます。

私は開高健が好きだと書きましたが、私が行ったことのないベトナムの街並みや空気、匂い、人々のいでたちまで思い起こさせてしまう氏の文章は、超高速で走っている人にはおそらく書けません。暑さと酒で脳がちょっとやられているあたりで(?)書けるかもしれません。

私自身もほぼAndante sostenutoで生きており、その速さで生きていくことではじめて見えることもあることを実感しつつ生きていますが、岩田先生にそれをやられてしまうと日本の医学界の大きな損失になるため、このままアウトバーンで突き抜けていただきたいと切望(ずるいかな)しています。

 

この本が完璧な文章かというと多分そうではないのですが、人は不完全なものにひかれると最初に書きました。

それがいいと思うかどうかは、書いた人が自分にとって好ましいかどうかで決まります。塩野さんも開高さんも実際に会ってみると実は私と相性が悪かったりするかもしれませんが、書いている文章から推察する人となりから、今でも好きな作家です。

さてこの本に対して私はどう思ったでしょうか。

それはあえて書かないことにしてみます。

あと、村上春樹さんや内田樹さんの本が好きな人なら、もっとこの本を楽しめたかもしれません。

残念ながらそこまで多く読んでいないため、その辺の解説はできません。ごめんなさい。