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pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

久坂部羊 「ブラックジャックは遠かった」に見る、医師が人の心を失っていく理由

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このエッセイ集は、医師兼小説家である久坂部羊さんの大学時代が自身の大学時代を回想して書いたものです。

久坂部羊さんは、現在活躍中の医師兼小説家の中ではもっとも才能のある人ではないかと個人的には思っています。このエッセイも、ユーモアもあり、文章もうまいと思います。さすが大阪人という気もします。

実際に「破裂」などはドラマ化されました。あのブラックなテーマ(医療費抑制のために国が高齢者の突然死プロジェクトを密かに進める話)をよくNHKがドラマにしたものだと思いますが、俳優の起用がよかったこともありなかなか面白かったようです。

久坂部さんの小説の多く(違っていたらすみません)は医療がテーマであり、かつ「廃用身」などは結構グロテスクな話でもあり、よく考えるとブラック・ジャックと言えるのかもしれません。(このことがわかる話がエッセイの後半に出てきます)

しかしブラック・ジャックにある分かりやすいヒューマニズムがなく、読者を突き放す無機質さがあるため、全ての人に受ける作品ではないはずです(全ての人に受ける小説はありませんが)。私は「破裂」を読んだとき、人物描写がやや浅いと思いましたが、それがテーマの小説でもないためこれは仕方がないかもしれないと思いました。

医療者が読むと語られている内容に頷くしかないような所が結構あるのですが、それ以外の方が読んでどう思うのかが想像できません。

 

久坂部氏が学生の頃、医学の道を歩むものとして、熱い情熱を抱いて勉学にいそしんだ…かというと真逆で、まったく勉強せずふらふらしていたエピソードが結構出てくるため、医学生がこのエッセイを読むと安心するかもしれませんが、今の医学生のカリキュラムは久坂部氏の頃はおろか私の頃よりさらに厳しくなっているらしく、もはやそうもいかないかもしれません。

医学生の多くは、中高時代に一生懸命勉強して青春を潰しており、さらに医師になると仕事で夜遅くまで帰れず休みもない日の連続になるため、大学ぐらいはちょっと遊びたいと思うのが人情だと思います。

しかしそうやって私自身も学生時代にモラトリアムをやってしまった結果、あとでもっと勉強しておけばよかった(特に基礎医学)と後悔するはめになるため、モラトリアムは教養の頃だけでよいかもしれません。(教養の先生方には申し訳ありません)

学生の頃遊んでしまい、各地を放浪したりして授業をさぼり倒した久坂部氏のエピソードは、そのまま当時の大阪の空気感をもよく伝える内容ともなっています。大阪で学生生活というのは色々な文化に触れるチャンスも多く、さぞ楽しかったでしょう。というか、ミスタードーナツでバイトした時の笑えるエピソードは、大阪以外ではまずないと思います。ネタ作りには格好のバイトだったかもしれません。

あと、学生時代に知り合った奥さんとのなれそめも傑作です。詳細は本に譲りますが、奥さんがこの本を読んでよく怒らないなという内容で、その辺りも大阪人だからということになるでしょうか。

そうしたお気楽な学生だった久坂部氏が、医師の持つ矛盾に気づき始めるのが、解剖学実習のあたりからです。

人体解剖の詳細は本に書いてある通りで、解剖を経験したことがない方にはショッキングかもしれません。ここまで書くと解剖に献体する人がいなくなるのではないかと心配ですが、とにかく医学部の人間が解剖について部外者に語るというのは、タブーな所があり、それは我々が人間の体をもののように扱っているからだという自覚があるからです。

献体された方や実験動物に対する供養として慰霊祭があり、いいことだとは思うのですが、解剖実習でやっていることに変わりはありません。

この解剖実習が、ある種のイニシエーションなのではないかと氏は書きます。非常にお恥ずかしい話ですが、不器用な私は時間内に解剖を終えるのが精一杯で、ご遺体について感慨にふける時もあったものの、臭いと作業に没頭することで終わった実習でした。焼肉が食べられなくなることはないですが、ホルマリン臭が髪について昼食がまずくなります。人体模型でもいいはずなのにあえて死体にするのは、確かにイニシエーション的な意味合いを付与されているのかもしれません。

私がその後医師になって、病理解剖というもう少しハードルの高い解剖に立ち会う場面も出てきましたが、もはや何とも思わなくなっていました。ある先生が携帯で臓器の写真をたくさん撮っていたのは当時かなり引きましたが(それをポケットに入れて持ち歩くので…)、スマホ時代になってみるとごく普通のことに思えます。

この「何とも思わない」という感覚がある意味かなり特殊です。

さらに久坂部氏は臨床実習で、患者さんを実験台のように扱う実習そのものに(必要とはいえ)違和感を覚えていたようです。学生に何度も触診されたあとこっそり泣いていた末期の乳がん患者さんのエピソードはかなり胸が痛みます。

 

医局に入局してからも、久坂部氏は色々な矛盾に気づきはじめます。

治る見込みのない患者を一般病院に送って切り捨てる大学病院の態度。

患者さんのためというより、学会発表や自分の腕をあげるために手術を強行する(そしてそのことに自己欺瞞をあまり感じない)医師たち。

本に書かれていませんが、セクショナリズムやポリファーマシーなど、現場で感じる矛盾などはそれこそ山のようにあり、どこかを見なかったふりにしないととてもやっていけないはずです。

どこかを見なかったことにしているため、医師の態度は、患者さんからすると、不親切であり、何かを隠していることに気づいた人は不信感を持ちます。

反精神医学の某氏やがん放置療法の近藤某氏が世の中でこれだけ注目されるのは、こうした欺瞞に患者さん側が薄々気づいているからではないかと思います。

これらのことは大学病院である以上不可避であることは久坂部氏も分かっているものの、麻酔科医として働いた経験で外科医の欺瞞に改めて気づく場面もあり、こうした医療の矛盾に対する強い問題意識が、久坂部氏の作品の原点になっているのではないかと個人的には考えています。

久坂部氏は医療の欺瞞を一方的に糾弾しているわけではないのです。氏は医師と患者の双方の言い分を知っています。

本にも出てきますが我が儘で自分のことしか考えていない患者や家族に医師が振り回されるというのも事実です。そのため多くの(世間知らずでナイーブな)医師は、途中で志を失って自分のライフスタイルを優先するようになり、患者から休日に電話がかかってきても居留守を使う開業医(本の中に出てきます)のようになるのではないかと氏は書いています。

久坂部氏の医療小説は、そうした医師(医療者)と患者の間の橋梁になりうるものだと思っています。

医師の方で、医師・患者間のコミュニケーションギャップを改善するために本を書かれている方もいらっしゃいます。とてもよいことだと思いますが、文章を読むとどうしても医師側のエクスキューズに偏っているように見えます(見えなかった医師の方は、多分医師アタマが石アタマになっているはずです)。

それよりも久坂部氏の本の「橋梁」というテーマに、私はかなり共感しています。氏は外科医としてのエリートコースからは外れてしまった(ごめんなさい)市井の医者だと思いますが、だからこそかもしれませんが、非常に教養の深い方のようです。

医療を考えるのに、医学知識だけでは語りつくせないことが当然のごとくあります。それは対象が人間であるからです。

そして、病気だけを見ていては本質的な部分の理解は医師アタマでしか理解できません。そうするとどんどん、医師は唯我独尊になる傾向にあります。

医師と患者の関係は、医療に関しては車と歩行者の関係です。ゆえに氏の医療小説も医師に対する問題提起がメインであり、受ける層も実は医師ではないかと思いますが、是非医師だけではなく多くの人に読んでもらいたいと考えています。

 

 

 

安富歩「誰が星の王子さまを殺したのか」に見る、問題の普遍化の困難さ

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前記事に引き続き、安富歩先生の「誰が星の王子様を殺したのか」という本を読んでみました。

 この本の要旨は、「星の王子さまはバラの花にモラルハラスメント(以下モラハラ)を受け、精神的に病んでしまい最後に自殺してしまった」というもので、「あれ?そんな話だったっけ?」と思いもう一度「星の王子さま」をざっと読んでみました。

実は私はフランス語はほんの少しづつ数年勉強していて、「自分で訳す星の王子様」という本を持っています。注釈つきであれば原書を読めるぐらいのフランス語の知識はあるのですが、残念ながら私には内藤訳以上にこの本を訳すだけの文学的素養がないため(何のためにフランス語をやっているかと言うとワインやフランス料理に興味があるからです)、日本語版を読みました。

私が「星の王子さま」を読んだのは小学生の頃で、確かその時は「王子様は世界にたった一つしかいないバラの花を置いてきてしまったことをとても悔いていて、最後には愛するバラのもとに戻った」という理解だったのですが、もしモラハラが「星の王子さま」のメインテーマだったとしたら、小学生の私に理解できるはずがありません。そもそもその時代にモラハラという概念は一般には知られていませんでしたし。

ちなみにこの安富本のアマゾンレビューの中には「apprivoiserという言葉の解釈が間違っている」「解釈が強引でこじつけ的な箇所がある」などの指摘があるようです。

言葉の解釈については apprivoiserという言葉がこの物語のキーワードであるというのは研究者間の共通認識であるようで、星の王子さまにおける用法についてのブログ記事も検索するといくつかあります。

生きたフランス語の中でapprivoiserという言葉がどう使われるのかは言葉とその文化に慣れ親しんだ人の方がよりよく分かるでしょう。

しかし一方、ある言葉に対するイメージや定義はネイティブでも意見の分かれるものであり、この場合は「星の王子さまにおける用法」を物語のコンテキストから理解するのでよいと思います。ある方が「ちゃんと調べもせずに書いている」とコメントされていましたが、この物語のキーワードであることは著者も認識しており、調べていないと言うことはありえません。

 

問題は後者の指摘で、これは自分がモラハラにあったことがある、あるいはそういう問題を認識しているかどうかで、こじつけに見えるかどうか意見が分かれるということだと思います。問題認識のない人にとっては、この話は王子さまとバラとの美しい愛の物語なのですが、一見美しく分かちがたい関係の中に支配・被支配の構造を見いだせる人にとっては、バラと王子さまの関係はまさに何かの罰ゲームであり、結果的に傷つき壊れてしまった(どのように壊れているかは本に詳述されています)王子さまが自殺する最悪の結末を迎えたという話になります。

ネットで「王子さまは自殺したという解釈は間違いであり、王子さまはバラのもとに帰ったのだ」と書いている人がいますが、あの部分をオリジナル本とフランス語原書で読むと幾通りかの解釈が可能であることが分かります。どれかひとつが正解でどれが間違いとは言えないのではないでしょうか。

 

バラは王子さまに執拗にモラハラ(コントロール欲求と言ってもよい。この言葉は依存症の構造を考えるときの一つのキーワード)を繰り返し、疲弊した自分の星から逃げたした王子がさまざまな経験をするなかで、狐との出会いは非常に重要な部分です。

オリジナルでは狐は、目に見えないものが重要であることを王子に話し、狐との対話を通して王子さまがバラへの愛に思いを馳せるという助言者の役割を果たしているように見えますが、安富氏の解釈では、狐はモラハラ問題における専門家(例えばカウンセラーや医療者など)のような役割を果たしており、狐という、いわば世間的・常識的なな価値観を代弁する人物(狐ですが)にさらに追い打ちをかけられ二重のモラハラ被害を被った王子さまは、精神的に決定的に追い詰められることになります。

王子さまがバラや狐にモラハラを受けたということが安富本ではかなり論理的に(論理的であるということほど、実は注意すべきものなのですが)、文脈をきちんと読み込んで解釈されています。そして、そのように解釈できる余地を残した名作が「星の王子さま」だと安富氏は考えているのであり、本の内容はオーセンティックな解釈の優劣を競うものではありません。

読む者に対し、読む者の心の中にあるものを写し出す鏡のような文学があるとしたら、それは間違いなく名作です。

 

安富氏の解釈では、バラをあまりにも悪者にしているようにも見えますが、想像で書かれてはいるものの、バラも幼少期の近親者からの辛い仕打ちなどがもとで他人にモラハラを仕掛けることでしか自分の存在意義を感じられなくなったなった被害者なのであり、存在自体がが空虚なもので(王子さまが人の姿なのにバラが花というのは、いかにも中身がない感じがしますね)あることも書かれています。

 

星の王子さまがモラハラで自殺したという解釈に、この物語に対して憧憬を持っている多くの人は、違和感を持つかもしれません。しかしそうしたストーリーの美化こそが物語に出てくる支配・被支配問題の隠蔽であり、問題の本質を分かりにくくしている原因だと安富氏は指摘します。

ある人は「安富氏はフランス人の恋愛を知らない。この理屈だと全ての男女関係はモラハラになる」と書いていましたが、フランス人に限らず日本の作品にだって、モラハラなのか真の愛なのか線引きが難しいものはあるのです。すぐに思い付いたものを挙げると、業田良家の「自虐の詩」は完全にモラハラだと思いますし、谷崎潤一郎の「春琴抄」も相当きわどく、モラハラを受けた佐助が春琴の顔を火傷させて自らを失明させるという狂気の展開を取ります。

そしていずれの作品でも当事者間の関係は美化されます。漫画や文学作品だからとは言え、それは読む人の思考に影響するものです。それがいけないということではなく、そういう意識を持つ必要があると思います。

安富氏がこの物語をモラハラの話として読んだのは、安富氏自身が両親から、また離婚した元妻から、バラが王子さまにしたようなモラハラを受けたことが影響しています。氏はそのようにしてなってしまった「男らしさの病」から逃れるために女性の装いをするようになったのかもしれません。

その装い自体が秩序を互いに強いることでようやく成り立っている世間に対するテロであるという話は前の記事に書きました。それは現実からの逃避ではなく、安富氏の戦いなのだと思います。

安富氏の受けたモラハラほど露骨でなくても、多くの人が立場や役割を押し付けられ、その中で空虚な偽りの自分を生きており、そのひずみが社会のあちこちで問題を起こしていると氏は指摘しています。

モラハラに特に問題意識のない人にとっても、星の王子さまのこうした解釈は、社会を大きく取り巻いている根源的な問題を問う糸口となるかもしれません。

少し気になったのは、バラも元々被害者であるとは言え、王子との関係では加害者であり、王子の受けた傷の深さを強調する内容になっている点です。それがメインテーマだからしょうがないのですが、じゃあバラを選んでしまった王子様の責任はどうなの?というツッコミを入れたくなる程度には私は性格の悪い人間です。

アマゾンレビューで安富本に好意的なコメントを寄せている人達はおそらくモラハラの当事者であり、それは全く悪くないのですが、「毒親」などの言葉に共感する人にしかわからない話になってしまうと「いつもの話」の繰り返しになってしまい、そこからの展開がなかなか見えません。

幼い頃親からモラハラを受けたという人は、私も含めかなりの数いるはずですが、親を恨み関係を断絶することは、解決の一つではあっても全てではありません。

親の世代が解決できなかった問題を自分がそのまま引き継いだ問題として、自分が違う人生を生きることによって解決の糸口を探るという考え方もあり、その場合親との和解はいずれかの時点で必要となります。

これを書くと「あなたの親はまだ理解のある人だったのでしょう。私の親は全く理解してくれなかった」という人がいるかもしれませんが、そういう話にするとこの問題が普遍化しません。問題意識を共有する者の間に分断を生むだけだと思います。

そして、「毒親」と関係を断つ人たちの中には、本当に危険なレベルの毒親だったため断絶を余儀なくされている人たちももちろん多くいますが、関係を長く断つにつれ心の中で形成された「架空の毒親」を激しく恨んでいる人もいます。実際の親はそこまで毒親でもなくなっているかもしれないのですが。

そして親が、実は自分のことを愛してくれていたのだということが関係を構築する中で明らかになった瞬間に、架空の毒親は心の中からいなくなります。そうなれば心の中の親の声にもう従わなくていいのです。

もしもこの文章を読んで、「親は敬わないといけない、関係を回復しないといけないという世間の風潮が許せない」と思われる方がいらっしゃったら、その方はまだ多分心の中に架空の親が存在しており、その親がそう言っているのです。私はしなければならないとは一言も言っていません。

※私の親戚にも親と関係を断絶している人がいるのですが、実はこの部分はかなりその人個人にあてて書いています。

 

話が脱線したので元に戻しますが、よき家庭、よき恋人関係という理想や秩序を保ちたいという人にとって、星の王子さまは美しい作品であってほしいはずです。

例えば安富氏のパートナーである深尾葉子氏の著書にある、「タガメ女」に搾取される「カエル男」たちは、facebookに家族写真をどんどんあげて「こんなに家族を愛している自分」をアピールするわけですが(facebookに家族の写真をアップするのが悪いと言っているわけではありません。問題はそれに対する態度とか頻度だと思います)、実は不倫しているというオチがあったりして、そういう関係というのはいかにも空辣です。

でも、結果的にfacebookには仲良さそうな家族の物語があふれかえってしまうことになり、皆それに安心している所があると思います。

しかし実際にはどうなのか。

そして世の中にあふれかえる美しい家族や恋愛の物語の中に、虚構や美化がないのかどうか。

この本は独特の解釈により、そのことを問うものではないかと思います。

 

安富歩氏「ありのままの私」と私自身の装いについて

東大・東洋文化研究所の安富歩教授は、女装して「アウト&デラックス」に出演したことで認知度が上がり(多分)、最近自身の女装についての本も出版されました。

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本の巻頭に女装された安富先生の写真集が掲載されていますが、綺麗だと思います。とくに表情が自然でよいと思います。安富先生がメディア慣れしているということもあるかもしれませんが、私はカメラの前でこういう自然な表情がなかなかできません。

足を露出するスタイルも多くの女性が苦手とするものですが、そういうスタイルも軽々と(わかりませんが)こなしているように見えます。

本を読んで分かったのですが、安富先生は元々おしゃれな方だったようです。男装していた頃から一着10万円のスーツを着ていたとのことですが、私の周囲に限って言うと、そういう人はあまりいません。

女装を初めて一つ一つ、細部にこだわっていくあたりの経験談が本に書かれていますが、女性らしさは細部に宿るため、これは必然的にそうなると思います。こだわると非常に装いに時間もかかりますし、年を取るとさらにあちこちやることが増えていくので、大変といえば大変であり、楽しいといえば楽しいものになるかもしれません。

私の周囲の男性たちは「服にお金をかけるなんて勿体ない」「自分の容姿はたかが知れている」などの理由で、いつ見ても同じような服を着ています。

私も昔はそうでした。

おしゃれに興味がないわけでもなかったのですが、周囲と同じように細部に女子力を磨かない、化粧をしない、服は母のおさがりなど興味のないふりをむしろしていたため、その後結婚を考える年齢になってから苦労した話を前に書きました。

この「おしゃれに興味がないふり」というのは、おしゃれ=ナルシズムの発露であり、自分の中に確実にあるナルシズムを否定していたいという私の歪んだ思考から起きていたものでした。

安富先生の写真を見ていると、屈託ない(かつ病的な意味ではない)ナルシズムの開放をそこに感じ取るのですが、その姿にネガティブな要素は感じません。むしろ上手く手なづけているという感じがします。

みんなが競って磨いていた女子力に何の意味も見いだせなかった私(かつ、実際に女子間で起こっていたマウンティングや複雑な人間関係にできるだけ鈍感でいようとしていた)は、結婚という「争奪戦」にその意味があるということに気づかなかったわけですが、結果的に今の連れ合いと逢うことができたので、自分の生き方としてはこれでよかったのかもしれません。

就職して数年たってから、私はようやく自分で服を買うようになります。

(以下、少しだけ私の好きなブランドの話になりますが、出てくるブランド自体をご存じない方も多いと思いますので、飛ばし読みしていただければと思います。)

昔から好きなブランドはあります。

その中で今も続いているブランドもありますが、まずシビラは飽きてしまって行かなくなりました。

もう一つ好きだったヴィヴィアンタムは、当時はサイズが細身で、明らかに長身で細身の若い女性向きのブランドでしたが、さすがにそれでは顧客があまりいないからか、最近は中年でも着られそうな服も多く、かつサイズが大きくなったと思います。お値段も高いので大人向けの服だと思います。

ヴィヴィアンタムはチャイナ服デザインのものが多いのですが、チャイナドレスは細身で長身の若い女性が似合うもの、という見方は中国国内でも根強いようです。

実際、そういう女性がチャイナ服を着るととても似合います。

しかし、自分でチャイナドレスをオーダーして着るようになって分かったのですが、特にノースリーブとか露背ものは、上半身にボリュームがないと貧相に見えます。チャイナドレスはアジア人のための服であるはずですが、実際には欧米人のドレス風にアレンジされているため、欧米人に近い体型の人に向いている服なのです。

中国国内でいうと北方の人は似合いそうですが、中国で人気のある細身で柳腰の女性に必ずしも似合うとは限りません。

ヴィヴィアンタムは、肯定的にとらえれば、チャイナドレスの持っている「似合うステレオタイプ」を少し破壊したと思います。かわいらしいデザインなら背の低い人でも似合うはずですし、本来はぴったりしたサイズで着るチャイナ服ですが、ヴィヴィアンタムの既成チャイナ服の中にはゆったり目に着られるものもあります。そうしたブランドは昔のコキュなど他にもあるのかもしれませんが、普段ファッション雑誌をあまり読まないためあとはケイタマルヤマぐらいしか思いつきません。そして、ケイタマルヤマのチャイナドレスが似合う人となると、やはり長身で細身の若い女性というステレオタイプになると個人的には考えています。

ヴィヴィアンタムはいいと思いますが、服の値段が高いのと、最近どうもワンパターンなデザインが気になるということで、やはりあまり買わなくなりました。

今私がかなり気に入っているのは、zadig et voltaireというブランドです。

前2ブランドとかなり方向性が違うのですが、何故好きになったかというと、連れ合いがロック好きで、ロックなテイストのあるカジュアルブランドに私自身が引かれたからです。

自分の服なのに他人の好みにつられているわけですが、そういうものは私の生活の中で実はかなりあります。それが自分ではないかというと、そういう風につられるのも自分だと思います。自分がいいと思ったものは受け入れ、そうでないものはスルーしています。

 

安富先生の女装については、SNSで数回書いていますが、存在自体が社会に対するメッセージになっているという点で、そうした思想の行動化が「ありのままの私」になったのだと理解しています。

これだと「思想=私」になるので、今の姿が本当に「ありのままの安富先生」であるのかどうか私にはわからないのですが、非常に勇気のいる行動だったことは容易に想像できます。

連れ合いは「あれはテロ」だと言うのですが、ある意味そうかもしれません。

例えば私の中にも男性的な部分があるのですが、残念ながら、私が男装してもそこまでの破壊力は生まれません。

私が別に男装したくないということもあるのですが、そもそも成人男性のサイズで私が着られる服がほとんどありませんし、あったとしてスーツとかカジュアル、ロックテイストなどステレオタイプなものしか思い浮かばず、あまりウキウキしません。

zadig et voltaire自体ユニセックスなデザインが多いのでここから男装にするインパクトもありません。

そのことは安富氏が女装を始めたときのウキウキしている様子と真逆であり、男性社会におけるファッションというのが、少数のおしゃれな人を除いては「無難」「見苦しくない」「場に沿った装い」など、ほぼ消極的理由で選択されていることも、安富氏の本を読んで改めて気づきました。

装いが社会性である男性と違い、見られる存在である女性の場合、選択肢は無数にあります。かつては日本も画一的に流行するファッションや髪形などがありましたが、最近はより多様化していると思います。韓国などでは流行の髪形やファッションが明確にあり、どこに行っても同じような服しか売っていないという話も聞いたことがありますが、時間の問題で日本のようになると思います。

女性の現代の服飾については自由すぎて、選択することと、それに対する責任を自分で負うことになるというものですが、これは現代の女性の生き方そのものとリンクしているように見えます。

私の男装にはインパクトがないのは、私自身が男性的な社会で生きているからかもしれません。そこに生きていながら、元々好きな女装を比較的自由に楽しめるというのは、自分の特権なのかもしれません。

 

安富氏のいでたちはかなり目につくと思います。背も高い方のようですから、遠くから見て分かるぐらいだと想像します。たまにスタジオなどで女装をやるぐらいなら大したことないと思いますが、ずっと女性の装いで暮らすのとはかなり違います。

その安富氏を見て氏に対してどういう態度をとるかで、相手の本音や素性が垣間見えてしまうという意味で、氏の女性装は対人コミュニケーションにおける「テロ」なのかもしれません。

または、無駄な人間関係を減らしたり、コミュニケーションをとる必要のない人間とかかわらないで済むなどの利点もあると思われ、縁切りのような意味もあるのかもしれません。

 

本は全体に平易な言葉で書かれていますが、網野善彦の無縁論やテレビの差別構造など興味深い話が色々散りばめられています。この辺りは私が書くより本を読んだ方がよくお分かりいただけると思います。

一つだけ、性同一性障害の障害(disorder)という言葉を「無秩序」と訳されていますが、その部分はやはり「心身の不調や軽い病気、疾患」などの意味でいいのではないかと思います。精神疾患で「障害」と名前のつくものは他にも摂食障害、パーソナリティ障害、強迫性障害などありますが、本来は障害というよりは「その行動または言動などによって本人や家族が悩んでいたり困っていたりする」という意味ぐらいが適切と思われ、ただそれを適切な熟語に集約するのが難しいのだと思います。

「違和」に置き換えるのはよいかもしれません。

 

 

 

 

 

精神科の処方:減薬や断薬ではなく「適切な処方」を

以前にSNSで書いた通り、日本精神医学会は継続して水俣病認定に対する意見表明を出しています。

その中で、中毒学の専門ではない神経内科医が主に認定基準の作成に関与していたため認定されるべき例が認定されなかったことに対して、神経内科医を名指しで批判しています。

中毒学の臨床応用というのは、本来もっとなされるべきとだと思いますが、現時点ではまだ少なく、あったとしても信頼性に疑問を抱かざるを得ないものもあります。神経内科医はもっと中毒学を勉強したほうがいいのかもしれません。(そう思って早速中毒学の本を買ってみました。)

この議論で私が面白いと思ったのは、神経内科医と精神科医の根本的な思考の癖の違いということで、神経内科医は臨床的な診断基準というものを作ってその基準に見合っている症例を発見するのが好きなのだと思います。

正常圧水頭症の三徴とかパーキンソン病の四徴とかなら良かったのですが、中毒性疾患に対する病気の全体像を持っていなかったということなのではないかと思います。

中毒性疾患の「ゲシュタルト」をここで挙げようと色々考えてみたのですが難しいことに気付きました。

中毒には急性中毒と慢性中毒があり、症状に個人差があり、神経系以外の症状も出現し、神経系も障害されるものの既存の疾患にどうも当てはまらなず、暴露薬剤との因果関係の証明が現在の一般検査では困難な場合が多いという、ものすごく漠然としたものになってしまうのは、私が中毒性疾患をそこまで診察したことがないからであり、多くの神経内科医は同様だと思います。鉛中毒などは教科書には書いてありますが、実際に見たことがありません。

一度も診たことのない疾患を診るのが神経内科医の仕事なのですが、神経症候学と、神経学的診察から想定される病巣部位とその機序を推定する、という診断パターンから神経内科医は離れることができません。

中毒性疾患の診断に関してはこの思考回路から少し離れる必要があるかもしれません。

一方、精神医学会は、診断基準が医師によってまちまちということで、これもやはり問題ではあるのですが、この問題に関しては、より柔軟な発想ができたのではないかと思います。

精神医学会が何故水俣病に関わっているのかについてはよく知りません。色々ないきさつもあるのかもしれませんが、ここではそれは触れないことにします。

ということでざっくり一言でまとめると、

神経内科医=診断重視

精神科医=治療重視

であるという傾向を垣間見た気がしました。

というよりは、精神科医が病気を分類・診断することの困難さについて、やや虚無主義的になっているように見えます。でなければDSMにあそこまで身内から批判は出ないと思います。(神経内科で疾患の診断基準や診断分類に異論が出るということは滅多にありません。)

さて、そうなると今度は精神科医の「治療」とはどういうものなのか?という問題が挙がってきます。

先日のブログ記事で内○先生(分かる方は分かると思うので実名は伏せます)のトンデモは人に健康被害を与えるから良くないと書きましたが、とはいえ精神科医の処方を色々見ていると、あまりにどうかと思うものを見ることもしばしばあります。

例えば、向精神薬1種類に気分調整薬1種類に睡眠薬1種類に抗うつ薬2種類に抗不安薬…という、一体何をしたいのか見ていて良くわからない処方があります。

私は精神科に関しては全くの素人ですし、そこまで使っているのでやっと落ち着いているということなのかもしれませんが、計画的に薬を出していたら果たしてそういう処方になるのだろうか?とも思うわけです。

精神科の薬を12種類ぐらい飲んでいる人の薬手帳を見たことがありますが、さすがにどうかと思わなくなっている時点で感覚がちょっと麻痺していると思います。あれを減薬したら一体どうなるのでしょう。

内科医でもこの問題に気付いている人達が、「プライマリ医で上手に抗うつ薬を使い、ベンゾジアゼピンを使わないようにしましょう」というコミュニティをネットで展開したりしています。それは、あくまで私の印象ですが、ベンゾジアゼピン系薬剤を服用し始めると依存性や耐性で薬が増え、次第に効果が落ち、そのため他の薬剤が必要になり、しかもリバウンドの危険があってベンゾジアゼピンをやめられなくなるからではないかということです。

自覚なくベンゾジアゼピン系薬剤の依存になっている人が内科でもとても多いという話はSNSで繰り返し書いてきていますが、そうした人達に薬をやめさせるのは、すごく大変です。高齢者になるとほぼ無理となるケースも多くあります。

依存になっている人にベンゾジアゼピン系薬剤の副作用を説明すると逆に過度に不安になったりします。副作用が心配、でも薬をやめると調子が悪い…という感じで毎日がすごく平板な感じになってしまっている(薬の心配と身体の不調と日常のことしか頭になくなってしまう)人もいます。

あとこれは前にも書きましたが、ベンゾジアゼピン依存になっている人は、常に体調が悪そうな人が多く、若い人で精神科に行かず内科でもらっている人達に限って言うと、そもそも不健康な生活をしている人が多いようです。若いうちはそれでもいいのですが、後で後悔するだろうという旨を色々説明してもあまり聞く耳を持ちません。

なんとなくいつも体調が悪いというのは、中毒性疾患全般を考えるときに、一つのキーワードになるかもしれないと考えています。

以前20代の女性の方が、「デパスを処方してください」と来院されました。当然お断りしたのですが、「以前かかっていた病院では出してくれたのに何で出してくれないんですか」「ここまで来るのに交通費も時間もかけて来ているんですよ(知らんがな)」「肩こりって言えば出してくれるんですか」などと20分ぐらい食い下がられてしまい、こちらもキレかけてきたため「そういう系の人」専門(?)の看護師さんにお願いして何とかお引き取り頂きましたが、私がその安易な内科医を一瞬恨んだことは想像にかたくないと思います。20代の女性だからよかったようなものの、薬欲しさに何でもやる人というのはいるわけで、くれぐれも注意しないといけません。

内科医は安易に精神科の薬を処方するべきではありません。この近辺にもデパスを「一番軽い薬だから」と処方する医師がいるようですが、「お友達がもらっているのにどうして自分は貰えないのか」と言ってくる患者さんもいるので結構迷惑です。

この手の薬は精神科で処方してもらうようにお伝えしていますが、肝心の精神科がどうなっているかというと、「我々の手の届かない範囲」というか、不透明な所があります。非常に優秀で良心的な精神科医もいれば、(私にその判断はできないものの)傍目にはそう見えないということもあり、さらに、それについて我々が口を挟むことは許されないという所があります。

精神科の薬剤を減薬することを専門とする精神科医がいればいいのにと思います。感染症だって、感染症対策委員会が病院にいて、カルバぺネムは使うなとか色々助言してくれます。そういう存在の必要性を感じます。

それは、ラディカルに断薬するとか、理想的なことを言っていても実際にやっていることが解離しているとか、そういうことではなく、「過剰投薬を減らして適切なほかの薬剤や治療に置き換えてくれる、または薬が不要であれば切っていってくれる」医師ということで、合理的な治療ができている精神科医ならできるはずです。

精神疾患の診断基準に関しては、異論もあるかと思いますが、DSMー5に依拠するということでよいと思います。私も本を買ってちょっと勉強してみることにします。結果的にこの記事の内容は後で少し変わるかもしれませんが。

しかし精神科の治療に関してはあまりに幅がありすぎます。漢方の場合は統一された診断基準がなく(日本漢方と中医学でも全く違うし、その中でも色々違いがある)治療もばらばら、ですが、漢方医のそれぞれの診断基準に従って薬を処方しています。

しかし、診断基準が統一的なのに処方が処方医によりバラバラでは、結局やっていることがよくわかりません。

対して神経内科医の場合、処方に差が出るのはパーキンソン病と、もしかするとアルツハイマー病ぐらいで、基本的には標準的治療が存在します。だから優れているということではありませんが、少なくとも透明性はあります。

なお、より本質的には、「精神疾患の治療は誰のために、何のためにやるのか」という問題も出てきます。つきつめると反精神医学的発想になったりもしますが、そういう哲学の領域になりそうな話は、話としては非常に面白く考察の余地もあるのですが、実際の臨床にはあまり入れない方がよいと考えています。

 

武田邦彦氏の番組の個人的な見方

原発事故以降、何人かの科学者やジャーナリストがメディアなどで発言し、脚光を浴びましたが、そのうちにネットなどで激しいバッシングを受けて現在はその人達をあまりテレビで見ることがありません。

彼らは確かに事故の危険性について言い過ぎたかもしれないけど、結果的にオーバーであることが判明したというだけであり、事故当時は放射線被曝がどこまで影響があるのか不明だったので、この点はそこまで責められることなのだろうか?とも思うわけです。

私もそんなによく見ていなかったので本当にかなりトンデモなことを言っていたのかもしれませんが、いずれにしろネットでの議論というのは、実社会にそこまで関係していなさそうだというのは、日々ネットに触れている人達も実感として感じたことがあるのではないでしょうか。

少しオーバーだったかもしれない当時の言説を信じて、現在も放射能健康被害を過大に書きたてる人もネットにはいるので、あたかも多くの人がそれを信じているように見えるかもしれませんが、あくまでネット情報ですから…以前美味しんぼ鼻血騒動のことを書きましたが、ネット以外で他の人と話をしていても、むしろ知っている人の方が少なかったです。そういうものだと思います。

ネット情報の信頼性をもう少し上げようと努力されている方々には敬意を表しますが、「色々な人が書く」ということと「ネット自体の商業性」「努力している専門家の多くがSNSや個人ブログで発信しており、匿名の人も多く発言力が今一つ弱い」などの理由で、残念ながらそれは今の所難しいと考えています。

そうした努力する専門家の人達が、例えば「がん放置療法」を提唱する近藤誠を繰り返し批判して近藤誠を信じる奴はDQNという空気をネットに作り出して排除しようとしているように見えますが、空気で同調を強いられることの不条理感に実社会で実はいつも息苦しさを覚えている多くの日本人にとって、「またかよ…」的な反応が出てしまうということも計算する必要があると思います。

 なお、原発事故後の様々なトラブルは断続的にニュースで報じられていますが、我々が明らかに当時を忘れており、関心が薄れていると思います。熱しやすく醒めやすいというのは国民的気質ではありますが、それは反省すべきことです。

武田邦彦氏は事故後にテレビなどによく出るようになった科学者で、原発環境問題などについても、かなりラディカルな発言をしています。専門家によると「信じられないレベルの基本的間違い」と言っている人もいるようです。

それにとどまらず、STAP細胞事件や血圧やコレステロールなど医学の話、歴史の話など、多岐に広がる話をブログでされています。

私自身は武田氏についてあまり興味はなかったのですが、連れ合いが時々ブログを見て色々議論をふっかけてくるので、ブログを読んでみました。

ブログだけではなく、「虎の門ニュース」もちょっと見てみました。

見てみると分かるのですが、武田氏は話がうまく、知識量もあの年齢で驚くほど豊富だと思います。同年代の多くの人は、知的職業についていても(医者とか)知識欲が結構退化していたりします。武田氏の歴史や政治の話などは真偽はともかくとして、面白いと思います。(歴史の専門家の人が見れば色々と異論があるかとは思うのですが。)

あまりに話が色々ありすぎて「どこでそういう話があったのだろう?」と思うものもあります。

武田氏の欠点としては「数字で表現しなくてもいいものを数字で言ってしまう」ことだと思います。「医者の9割は真面目な人」となると何の根拠もありませんが、普通に「医者は真面目な人が多い」と言えば済む話であり、そういう間違いが多いと思います。その数字もかなり大雑把だったりしますし。

あと、専門用語を使わなくてもいい所に専門用語を誤用してしまうなどもあり、NATROM氏などはその点を批判しています。

NATROM氏というネットでは有名なお医者さんはブログ武田氏のことを批判しています。

NATROMさんは非常に深く追究される先生で、その点で医師としての資質は素晴らしいと想像していますが、この指摘に関しては、すべて正しいと思われるものの、割と枝葉末節的ではないかと思います(というと同業者から袋叩きに合いそうですが、袋叩きに合いそうなことはすでにSNSでは結構しゃべってしまっていますね)。

記事の改ざんなどを指摘されていますが、間違ったら書き直すのが普通であり、書き直したことを注釈で入れるのが親切ではありますが、必須というほどでもないと思います。

*ただし、喫煙と肺がんの関連については、私自身は「関連はあり」と考えています。

その他、武田氏のトンデモを指摘する記事もありますが、こちらの方はどこまで本当かよく分かりません。

SNS上で何人かの科学関係者のTLを見る限り、武田氏というのはもう「トンデモ認定」「話を聞くに値しない人」「信じている奴はDQN」であるわけですが、武田氏のネット番組の再生回数を見る限り、ファンは結構いそうです。

私が興味を持っている分野の話を例で挙げると、「虎の門ニュース」の「血圧の新しい基準値」の話(おそらくSPRINT試験のこと)では、「あんなのは製薬企業のヒモつきの研究だから」とバッサリ、多分そこまで根拠なく言ってしまっています。

なお、製薬会社がスポンサーになっている臨床試験が常にインチキかというと、ディオバン事件などもあったので確かにそういう研究も我々の知らない所でありうるわけですが、むしろスポンサーがない個人の発想による研究に間違いが多いという指摘もあり、このことも理系論文の再現率の低さとしても指摘されている理由の一つであると思います。STAP細胞ねつ造疑惑なども、小保方晴子氏がインチキをしたかどうかは私はよくわからないのですが、個人の間違った思い込みが強かったというのが大きな理由ではないかと思います。U先生のフォロワーに総攻撃されそうですが、製薬会社がスポンサー=インチキという図式は必ずしも成り立たないと思います。

「血圧が高いと脳卒中で死ぬ、血圧が低いと癌で死ぬので、これはもう自分で選択するしかないですよね。私なんかはピンピンコロリという死に方をしたいので高い方がいいかと」に近い発言をされていましたが、問題は血圧が高いと脳卒中だけではなく心筋梗塞のリスクも上がり、それらの疾患は必ずしも致死的なものではなく、いずれの疾患もQOL(生活の質)にかなり影響し医療コストも相当なものであるということなのです。そこまで割り切れる話ではありません。

血圧が低いと癌で死ぬリスクが上がるというのも一つの研究結果であり、それが真実と言い切るのは言いすぎであると思います。

しかし一方で、血圧を下げすぎてふらつきに悩んでいる高齢者や、コレステロールの薬で体がだるいなどの副作用が出ていても我慢している患者さんというのは、割としばしば見ます。循環器内科にかかっている患者さんというのは基本的に血管疾患のハイリスク群ですから、降圧目標を低めに設定するのはその意味では当然ですが、そのことばかりに集中してしまうと、QOLが低下したり他の病気に対する注意が人によっては逸れてしまう可能性もあります。

血圧というのは目に見える数値であり、分かりやすいものです。それが健康のバロメーターであると思っている人は多いです。

外来で血圧を測って高いとショックを受ける人が多いのですが、外来血圧は上がるものなのでそこまで気にしなくてもいいとお話をしても、なかなか納得されない方もいます。

しかし、血圧のみが健康のバロメーターではありません。

一日5回血圧を測ってとても安定した数値だったのに突然死してしまった患者さんを見たことがありますが、残念ながらそこまで病気は予防できないのです。

このことは色々な医師も指摘しており、例えば名郷直樹先生の本を読んで頂くと、降圧薬やコレステロールの薬が「本当はどこまで有用なのか」について、懇切丁寧に書かれています。

そして、武田氏ブログに書かれている本質的な疑問というのは、同業者やそれ以外の人達から出されることはあまりありません。

なので武田先生のブログを読んだとき、まるで子供(とはいえ知識量はある)から鋭い質問が来たかのような、「こう聞かれたら自分がどう答えるかで自分の理解度がはっきりわかるのではないか」とことに、ハッとさせられたのです。自分は賢いと思って定説に何の疑問も抱かない人達よりも、これはずっと「科学的態度」なのではないかと。

ネットでは誰もが人より賢くあろうとするため、トンデモな人や言説をネタにして嘲笑する人は沢山いると思いますが、その中には問題の本質をよく理解せず、有名な科学者がトンデモと言っているからあれはトンデモなんだろうぐらいの認識で攻撃している人がいるはずです。

良心的な科学者はネットの信頼性を上げるために書いているのに、そういう人達が結果的にネットの信頼性を下げてしまっているのは皮肉なことです。

そして何よりも、トンデモを排除してしまう科学の世界というのは、非常につまらないと思います。後から間違いであると分かることはたくさんあるでしょうが、専門家集団がタコツボ状態になって専門外の人の率直な疑問をトンデモ扱いするというのは、どう考えても健全な状態ではありません。きちんと答えればいいだけのことです。

なので、極論すればトンデモ=科学的な態度の一種である、とも言えると思います。それらの多くは本当にトンデモかもしれませんが、その中に画期的なものがもしかしたらあるかもしれません。日経サイエンスなどを見ても、素人目にもこれはどうなんだろう?という研究は時々あるのですが、不思議とそれらはトンデモ認定されていません。

トンデモが問題になるのは、ビジネスと結びついている場合(EM菌とか)や、近藤誠や内〇先生のように言説が健康被害に結びつく可能性がある場合です。武田先生も血圧やコレステロールについて書いていますが、人を脅かしているというよりはむしろ素朴な疑問を呈しているだけであり、医師の言うことを鵜呑みにせずに自分で考えるように視聴者に促しているものです。

なので、武田先生の話を鵜呑みにしてなんの疑問も抱かない人というのは、武田先生のブログを読むべきではないと思います。知的好奇心を刺激し、常識と思われていることをまず疑い自分で考えましょうというのがブログの主旨だと思いますから、結構間違っている部分がありそうだというぐらいで読んだほうがいいはずです。間違いを自分で見つけていくのも知的作業です。

大学の先生がこういう先生だったら、講義はなかなか面白かったと思うのですが、こういう人が私の大学にいなかったのは残念なことでした。

私が若手だった頃、専門医試験の時に勉強に疲れると「ヤヌスの鏡」という神経症候学の本を読んでいました。「神経内科タブロイド」と揶揄されたりしている本ですが、自ら「異端の神経内科学」とうたっています。武田氏のブログにはそれと共通するものを感じます。

武田先生の政治的なスタンスは反リベラル的ではあると思いますが、いつも見ているビデオニュースのパーソナリティである神保哲生氏や宮台真司があまりに欧米かぶれというか、精神が欧米に浸蝕されていることに割と鈍感であることに最近ちょっとがっかりしているpianqueとしては、明るく清々しい愛国心というのは、なかなかに癒されるものであったりします。武田氏の主張も時折非現実的ではありますが、リベラルほど根暗じゃないのはいいですね。

(リベラルの皆さんごめんなさい。リベラルも別に嫌いじゃないんですが、自らの欺瞞に鈍感な人を時々見るので、そこに疑問を呈してくれる人は貴重だと考えられるリベラルの方がもしいれば、その方には心からの敬意を表したいと思います。)

 

韓医学の問診のとり方(続き)

前の記事を読んで「なぜ下半身に風寒があると判断したのか」と思ったから、多分このお医者さんがそういう症例の経験が多いからだと思います。

本日は2例目のダイジェストを作ってみましたが、こちらは患者さんの男性に独特のアクセントがあって聞き取りづらく、お医者さん側の話にも中医学的になじみのない話が出てきて非常に訳しにくかったです。ネイティブの人なら一瞬で訳せるでしょうがさすがにそこまでできません。

そのため今回の話は訳を色々間違えているかもしれません。間違えていたらどなたか教えて頂けると嬉しいです。そのさいブログは注釈を入れて訂正いたします。

主訴が肥満の患者さんで、青字が患者さん、赤字がお医者さんの話です。

 

今一番悩んでいるのは肥満です。あと、片頭痛もあります。

側頭部から頭頂部にかけて、刺すような痛みがあります。

(一日中痛いのか時々痛いのかを聞かれて)午前中に痛い。週に1度くらい。

あとは、不眠がある。寝つきが悪いです。

90年代に離婚して子供の養育問題などがあり、心配やストレスで太ったと思う。

食事には気をつけており、朝食も取っています。

夕食は7時ごろに摂っています。

肥満で去年に何かの薬を飲んだのですが効果がありました。しかし高価なため中断してしまいました。

頭痛がひどくなったのは去年の秋からで、その頃ストレスがありました。

(動悸や胸のどきどきする感じがないかと問われて)まあ緊張したときなどにはそうです。

肥満自体が心臓に負担をかけますが、今の脈を診ると心臓に負担がかかっている感じがありますね。また、前頭部の痛みは胃腸の働きと関係しており、消化が悪いと前頭部が痛くなる。(患者さんは側頭部から頭頂部といっていたはずだが…。前頭部なので陽明経の頭痛と言いたいのだと思う。なお、患者さんの話を聞いている限り、どちらかと言うと片頭痛というより緊張型頭痛に近い)

気候により頭痛に変化はないか、また年齢とともに悪化していないか。(天気が悪いと頭痛も悪くなります)

症状を見ている限り頭に熱が上がっているようだ。また、問診票を見ると脂肪肝と言われたとあるが、酒はどのぐらい飲むのか?

月に2,3回ぐらいまで、1本で済ませようと思うがつい2本飲んでしまう。でも2本以上は飲みません。

脂肪肝は酒や肉のとりすぎで起こるが、あなたの場合はストレス性の脂肪肝かもしれない。

あなたは心臓と肝臓のはたらきが弱いと思われる。また、もともと消化が悪い体質なのに、飲食が体に合っていないようだ。便が軟らかいことはよくあるか?

よくあります。食後すぐにトイレに行ったりします。

そうですね。脾も弱いと思います。脾が弱いということは、外から飲食物を吸収し、いいものを取り入れ悪いものを分別するという機能がありますが、それが悪いためにすべて体にたまってしまうのだと思います。天気が悪いと頭痛が悪化するのも脾虚(のおそらく痰濁)と関係しているのです。また、もともと血気が盛んな体質のため、身体を使いすぎてしまいやすい(不摂生になりやすいという意味)。問診票を見ると「汗をかきやすい」とありますが…。

はい、今は大丈夫なのですが、一回ものすごく汗をかいて枕までぐっしょりになったことがあり、あの時はびっくりしました。

昼間に気温が上がったり動いたりして汗をかくのは正常ですが、夜間に汗をかくのは盗汗であり、陰血が不足しており、陰虚のために汗が出ているのでこれは陰虚をよくする必要があります。

さて、今回は肥満の治療ということでいらしたのですが、肥満といっても食べ過ぎでそうなっているのではなくストレス性の肥満です。脈を診ると火が体内にたまっているようですから、それを発散させること、朝ご飯はちゃんと食べているようですので夕食は少し早くして、その後は間食などしないように、また毎日1時間程度歩くといいでしょう。また腸の働きが悪く消化ができていないので、行気作用のある漢方薬を服用し、ストレスを解消することが必要です。

 

ということで、あれこれ言ったけれども結局は食事と運動の話になるわけですが、「ストレスによる肥満」ということを自覚してもらうだけで、少しは違うかもしれません。この患者さんがこの話に納得されたかどうかは映像を見ている限りでは分かりませんでした。

 

 

 

韓医学の問診の取り方

youtu.be

ツイッターで以前にも出した動画ですが、ツイッターだと140字以内の字数制限があり内容にまで触れられないため、ツイートを削除してブログ記事にしてみました。

ユーチューブには韓医学の動画がたくさんあり、ほとんどは一般向けの内容ですが、問診をどうとっているのか、どういう解釈で考えているのかは、結構参考になります。中医学と似ている所も違う所もありますね。

1例目の人のダイジェストをかなりはしょって書いてみるとこんな感じです。(青字:患者さん 赤字:医師)

 

寒い所に行くと足がすごく冷えてかじかむようにとても痛い。

手も冷たくなる。

頭が重い。

消化が悪い。

検診で逆流性食道炎と言われた。

(脈をみて)脈は緊(弦かも)。気が上に押し上げられやすいので逆流性食道炎も起こしやすいと思われる。胃の調子はあまりよくなさそう。本人は甘いものが嫌いと言っている。

(脈を診て)首のあたりに気がつまっている感じがする。のどに何かがつまっているような感じはしないか?(あります)

(食事はどのようなものをとっているのかと聞く)ほとんど菜食です。

(めまいや目の前が真っ暗になる感じが時々あるのではないかと聞く)時々あります。

3年ほど前に、鬱火病に悩んだことがありました。

(脈を診ながら)胸やのどに気が詰まりやすく、気逆(に相当する韓医学の概念)を起こしやすいと思われる。

また、寒気が腰の下方に集まる体質のため、食欲があったとしても下部の冷えのため気逆となり、消化がうまくいっていない。

また、若いころに子宮の手術をしているが、子宮をとると腰が弱くなる(これはおそらく中医学でいう腎虚のことだが、患者さんには本当の腰が悪くなると誤解されているかもしれない)。この腰の弱りのために足が痛くなるものと思われる。

大便は1日1回ですが、腸にガスがたまりやすく軟便気味です。

脈診では、体の下の方を表す脈があまりよくないため、腸の不調もそれで説明できる。

さっき腰が悪いと言ったが、あなたの場合体調が悪いと腰が痛くなるはずである。脊柱のゆがみなどでいつも痛いというわけではなく、他の症状が悪いと腰が痛くなる。

椎間板ヘルニアとかではないですか?

脊椎はすべてつながっているので、もちろんそれは影響する。

しかしあなたの場合は体質を整えればいいので手術は必要ない。

体質的に下虚であり、身体の下部に風寒の邪を受けやすいため、ちょっとした寒さでもすごく寒く感じるかもしれない。また腰や足に症状も出やすい。

また、心配ごとがあるとそれが解決するまで頭の中から離れないということはないか?(ええ、あります)。こういう体質の人はそういう敏感な傾向があるし、気が滞りやすい。普段胃腸の調子がよくても心配事があると調子が悪くなったりする。

舌にも白苔がついており、前述の説明と合致する。

まずは風寒の治療をして、それから体質に対する治療をすれば体調はよくなるであろう。

 

日本漢方のみなさん、中医学をやっている皆さん、どうでしょう?

多分それぞれ見方が違うのではないかと思いますが、上実下虚というのはおそらく共通しているはずで、そこから色々見解が分かれそうですね。中医学に絞ってみたとても、脾腎陽虚ととらえるか、脾虚肝乗なのか、肝鬱瘀血なのか、痰湿があるか、風寒が下部を損傷するとはどういうことか、気逆の原因の説明はそれでいいのか…など、普段自分が問診していることは、自分の頭で理解できる範囲のことしかしていないことがこういうのを見るとよく分かります。

とりあえず1例のみ出してみましたが、もしかしてまたいずれ出すかもしれません。