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pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

北条かやさんと「二十歳の原点」

北条かやさんの本は、ちょっと前に私の連れ合いが「キャバ嬢の社会学」という本を持ってきたので、それを読んだことがあります。
内容はすっかり忘れてしまったのでさほど印象が強くない本だったかもしれません。


その後、ネットでのいくつかの炎上事件があり、ネットでものすごく叩かれていたので、その詳細をちょっとだけ読んでみたのですが、あまり細かく読まずにあえて言うと、何でここまで叩かれるのかわからない(「こじらせ女子」の件とか、確かに北条さんがうっかりやってしまったみたいだけど、それほど重大な問題だろうか?)という感じでした。
一部の人にとっては非常に重要な問題だと思うので、その価値観について特に口をはさむつもりはありません。

「救急外来にかかったらビタミン剤と咳止めだけ処方されて7000円取られた」というのも、「医者にかかったら風邪が早く治るという迷信を信じてしまっている人」は世の中にたくさんいるわけで(実際に医師の診察が有用なのは風邪と他疾患の鑑別においてぐらいしかない)、そういう人たちに「ああ、救急にかかるとこんなにお金取られるのに、せいぜいビタミン剤ぐらいしかくれないんだな」と知ってもらうことは、不急の救急受診を減らす上でむしろいいのではないかと思いました。
しかし、ツイッター上のお医者さん達の反発は結構買ってしまったようです。
 

togetter.com

 

まあこれを見ると北条さんも結構強く、ヒステリックな言葉で言い返しているよねえ。




そして本人のブログも読んでみたわけですが。
 

ameblo.jp



本人は自虐のつもりでも、他人を傷つけている言葉って結構あるわけです。
ご本人は、「こんなBBA」「もうオバハン」と書いているのですが、だとしたら彼女よりずっと年上の私は何?とか、
「ブス」と言っても実は自分はかわいいと思っているんだよね…というセルフィ―とか、「自分はブス」の比較対象がモデルさん達だとかで、特に女性たちの気分を大いに害するものがあると思います。
(pianqueはこう書いていますが、あ、そ?っていう感じではあります。
私の連れ合いによれば、女性はみんな自分のことが一番かわいいと思っているそうで、目いっぱいおしゃれをした時の自意識過剰さというのは、私も含め多くの女性が経験していると思うからです。
とはいえ、メイクと整形で女子力を重武装しているような人にもし「pianqueさんはそのままでいいのよ」とか言われたら…pianqueもそこまで人間ができていませんから、もしかして殴っちゃうかもしれません。
これを受験に例えれば、ガリ勉して有名大学に受かった人に、あまり努力せず偏差値が高くない大学に入った私が「一度しかない青春を勉強だけで過ごすのは勿体ないよね」と言われるようなもんですから)

ただ、彼女はやっぱり、まだ若く、そして幸せではないのかもしれないなあと。
若い頃は多分、みんな一時的に不幸な時があって、それはやり過ごさないといけない時なのではないかと今になって思ったりします。
北条さんが、まったく何もしなくてもよさそうな腕と足をマニアックに脂肪吸引やったりしているのを見て、「今の自分が嫌い」「自分を変えたい」「愛されたい」という、色んなメッセージを察知してしまうわけです。
そういうメッセージを本人がある程度意図的にやっている節もブログの文章をよむ限りでは、ちょっとはある気がしています。
テレビに映る姿は彼女のキャラクターのせいなのか、整形とメイクでまるでお人形さんみたいになってしまっているからか、私にはすごく不自然に見えます。
本人も「内面の美は外見の修正では補えない」ことはよく知っているみたいなのです。
しかし、その言葉に反して、服やメイク、おしゃれのためのグッズ、整形…彼女のブログはそういう外見を飾るものにあふれています。
ご本人は仕事のためにやっていると書いているけど、私が仕事のためと称してヨガをやっているのと同じく、それは言い訳かなあと。

すごくありきたりな言い方なんですが、その外見に対するこだわりが傍からは「この人は本当は自分が嫌いなのではないか」と見えてしまう。
斎藤薫氏が昔、4時間かけてメイクする浜崎あゆみについて同じことを書いていました。

美を追求する旅には終わりがありません。
そしてほとんどの女性は、どんなに整形をしてもメイクをしても、ファン・ビンビンみたいな(←私の好み入ってますが)絶世の美女にはなれないということをよくわかっています。
そして追求したからどんどん美しくなるかというと、むしろピークの後は徐々に落ちていくことになります。
かくいう私も、5年ぐらい前までは「女性としてまだ見られるかも」と、内心ひそかにちょっとだけ思っていたのですが、最近はさすがに賞味期限切れの納豆のごとく(かつ、実際に食べられるかどうかもギリギリの地点)、私を見慣れている連れ合い以外の男性にもはや何の需要もないということを、ひしひしと噛みしめております。

(その後の浜崎あゆみの容姿が色々取沙汰されるところをみると、ちょっとかわいそうになってきます。)


このブログで書いたことがあるんですが、北条さんと同じく、私もごく地味な10代を送っていました。
服やおしゃれにお金を費やしたり、男に媚びるために自分の外見を磨き上げることにしか興味がない、そういう女になりたくないと思っていました。
しかし、おしゃれをするというのは、女性の大きな楽しみでもあります。
その楽しみに気づいてから、反動で20代の終わりぐらいに服をたくさん買ったり、ブランドもののバッグを買ったこともありました。
当時大阪に住んでいた私には阪急百貨店のショーウィンドウに飾られていたフェンディのバッグがとても眩しく見えました。
しかし買ってみてしばらくするとその輝きがなくなることが分かって、以後買うのはやめましたが。
後から考えてみると「服やおしゃれにお金を費やす女」という思い込みも私の中二病黒歴史というか、随分と雑なステレオタイプです。
私は自分が女子のメジャーなコミュニティに入れなかったことを「そういう女になりたくないから」にすり替えてしまっていました。
実際にはもっと深刻なディスコミュニケーションとか、タガメ女全盛期の社会の規範に私が馴染めなかったとか、家庭環境とか、そういう色々な問題が関係していました。
 

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おしゃれのもう一つの意味は、女子の仲間うちのマウンティングの武器の一つです。
最近では男に媚びるためというより、むしろこちらの意味合いが大きいかもしれません。
北条さんはそうした、学校や職場、ママ会などどこにでもありそうな、仮想女子グループの中の小さなカースト競争に乗ってしまったように見えます。
今の彼女ならそんな競争に乗らなくてもいいはずなのに。

マウンティングというのはどういうことかわからない方はちょっと前のドラマ、「ファーストクラス」や、最近ネットに出ている東京カレンダーなどの記事からお分かりいただけるかと思います。

はたから見ているとつまらない、そこから抜け出したいと思ってる女性も多いはずの小さな世界。
北条さんがなぜそんな狭い世界に自ら入っていくのか。文学的に想像してしまうなら、北条さんは昔どこかで、カースト競争の中で負けてしまったのかもしれません。
そしてそのカースト外にあることの疎外感を見に染みて感じているのかもしれないと。
そして、誰もが自分をより賢く、正しく見せようとするSNS界隈で「負けてしまった」ことで、リアル世界に生きている自分を女の競争のためにさらに武装する…というのはちょっと言い過ぎでしょうか。

誰からも好かれたいというのは、中二病というか、多分小二病ぐらいの話ではないかと思います。
年をとるにつれて、プライベートでも仕事でも、誰にでも好かれるわけではないのだということも、それでいいのだということもわかってきます。
そしてそれこそが自分自身なのだということも。
もし他人から愛されたいのであれば 何よりも自分自身を愛する必要があります。
そしてそのためには自分自身の醜い面もきちんと自分に見せる必要があるのです。
そのためには、誰かを真剣に愛する必要があるかもしれません。
その誰かは恋人でもいいし、家族でも子供でもいいかもしれません。
その人の前で醜く欲望の深い自分をさらけ出し、その自分を含めて、愛することができればいいのです。
いつまでも綺麗なままではいられません。
真の自分と向き合えない限り、自分のイメージの中の「理想の自分」という虚像を追い求めつづけることになります。
 
「そんなこと、言われなくてもわかってますよ」
分かってる?本当に?私にはそうはみえないんだけど。
 

世間は女性に若さと美しさを求めながらも、一定の年齢を過ぎてからは、大人としての自立も期待します。
30を過ぎた女性がなんかフワフワしていて、責任を負わなくていい生き方をしていることをよく思わない人は意外にたくさんいるかもしれません。
その人たちにとっては他人の人生なので別に干渉される理由もないのですが、そういう女性がメディアに出て発言するということは、そういう世間のアンチ票を拾うことでもあります。
 
そう、フワフワと生きている人は、日陰で生きているほうがずっと楽なんです。
 
なので、北条さんに本をもし送るとしたら、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」あたりでしょうか。
ベストセラーなのでお読みになっているかもしれないのですが、本を読むということと、その中身を掘り下げていくことは、次元の違う話だと思うからです。
 
こうして色々書きましたが、北条さんのブログは結構読ませていただきました。
ひと世代若い人達のファッション(すべてのアラサーを代表するわけでもないでしょうが…)がわかって、その点はなかなか楽しかったです。
 
ブログを読んでいて、ああこれは、昔「二十歳の原点」を読んだときの感覚と似ている、と思いました。
二十歳の原点」の著者は学生運動に参加していたものの、時代の流れに流されてしまい自己が崩壊して自ら命を絶ったのでした。
この著者が書いた詩は、未熟で粗削り、そういう詩なのですが、読む者に自分の若い頃を思い出させるストレートなメッセージがあります。
でも、北条さんの著書まではちょっと買わないかな…とは思いました。
 
ちょっと前にツイッターで北条さんを「アスペルガー」と書いた人がいて(アスペルガーアスペルガーと書いて何が悪いとかいうまとめの見出しを見ましたが、明らかに悪いと思います)、それは非常にまずいと思ったのでツイートを出しましたが、書いた人のTLを見てみると、何故か北条さんがらみのツイートが結構多い。
どういう感情を持つにせよ、気になってしまうということではないでしょうか。
もしかすると、ある種人を引き付ける力のある人かもしれないと思ったことと、
もしかすると、それは若い頃の椎名林檎Coccoの不幸さに惹かれてしまっていた普通の人たちの、残酷な好奇心と似ているかもしれないと思いました。
 
 

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんに思うこと

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんなど、有名人でヨガをやっている人が何とも残念なことになっているという事実は、ヨガをお勧めするものとしては大変心が痛むものです。

それぞれの方がどういうことになっているかはネットで調べて頂くとお分かりいただけるかと思いますが、本人たちがどう思っているかはともかく、とくに千葉さんは、傍目にはあまり幸せそうに見えません。

ヨガをやっている人が政治的主張を持ってはいけないということではないですし、状況により必ず主張すべきことは出てくると思いますが、彼女がメディアやネットで繰り広げている一連の言動は、やっぱり、幸せではない人のやることに見えます。

さまざまな事情があったのでしょうが、彼女が告白している不倫問題も、それは配偶者との絆を深められなかったということでもあるので、少なくともヨガ的な生き方ではないと思います。

挙句、不倫相手について本であれこれ暴露してしまっているようですが(読んでいないのでもし間違っていたらすみません)、その暴露が世間的にネタにはなっても、誰を幸せにするのだろう?というのが問題です。

 

彼女のやっているヨガは「インテグラルヨーガ」というものらしいですが、ヨガの持つ膨大な世界を「統合する、まとめる」などということは、少なくとも他の色々な活動をしながら片手間にできるものではありません。

ヨガを専業にしている人にすら非常に難しいことです。

人間は、どうしても自分の思い込みにとらわれてしまうものであるという自覚があれば、「まとめる」という行為自体が「いいとこ取り」、つまり、本質の理解からはほど遠くなるということに気づくはずです。

 

もともとヨガに興味を持つ人の中には、一定数、心に問題を抱えていたり、精神面で少し不安定だったりする人がいます。

女優さんなどがヨガにはまるのも、たんに美容的関心からだけではなく、不安定な仕事などでそうした問題が起こりやすいからと考えることもできます。

ヨガをやっている女性にはもともと綺麗な人も多いのですが、綺麗な人ほど色々精神的に問題を抱えやすいという例は枚挙にいとまがありません。

なので、精神的問題を抱える人達が(男女問わず)一つにはその解消手段としてヨガを選ぶわけですが、実際にはヨガのアーサナ(座法)を行うだけではそれらの問題は解決しません。

アーサナを行う際は、その前提となる「ヤマ」と「ニヤマ」という概念がとても大事で、これらのものは不可分です。

その二つができるようになることはとても難しく、ほとんどの人にはおそらくできませんが、少なくともそれに近づいていこうとする姿勢は持ち続ける必要があります。

 

片岡鶴太郎さんに関しては、やっぱりグル(導師)が悪かったのではないかと思うのですが、そうではなく自己流の解釈でやってしまったということかもしれません。

ただ、片岡さんの場合、ご自身は幸せに感じていらっしゃるかもしれないので、そうであれば他人がどうこう言う問題ではないかもしれません。

私が問題に感じているのは、一日数時間にもおよぶヨガや瞑想が本当に健康によいのか?ということだけです。

人間は健康のために生きているわけではありませんし、ヨガには、一つのアーサナを行えばそれで充分という考え方もあるのです。

 

おそらくですが、ヨガに本当に真面目に向き合っている人というのは、メディアで有名になる人ではないと思います。

そういう所にあまり興味を持たないでしょうし、それで心が満ち足りているからです。

 

それにしても、「ヨガをやっていて不幸になるのはヨガが悪いからではなく、特定の人が個人的に悪いからだ」的な話の展開というのは、イスラム教やキリスト教の人が、「イスラム教やキリスト教は悪くない、一部の人が過激で極端なだけだ」と言い訳するのと同じで、書いている本人すらある種の自己欺瞞を感じてしまっている点で、世間的にはアウトな話かと思います。

ヨガはマットの上のアーサナにとどまらず、実は生活のいたるところにある、ごくありふれたものなのだということに気づけば、そのありふれたものに注意を向けることで、人によっては別に「ヨガ」をあえて行わなくても幸せになれるかもしれません。

ただ人によってはヨガの修練を行った方がよりそうした意識を持ちやすくなるため、そういう人はヨガを行った方がいいと思います。

ヨガが、日常から離れた特別なものになった瞬間に、それは暴走する可能性を持つのかもしれません。

 

あるいは千葉さんは、ヨガをやっていること自体が苦しいのかもしれません。

ヤマもニヤマも、それに縛られると感じるのであれば、それは苦痛以外の何物でもありません。

もしそうであるならいっそヨガなどやめてしまったらいいのにと思ったりもします。

生活の中のヨガ、メディカルコレクトネスなどのお話3つ

#会報の記事向けに書いたもの(全部は掲載されないかもですが…)ですがブログにも載せておきます。


ここ3年ぐらい、ヨガを日常生活に取り入れるようになり、最近は短い時間であっても日課にするようになっています。
自分は体が硬くヨガには向いていないと思っていたのですが、続けるとそれなりですができることが増えてきます。
日常のヨガが「体のお掃除」のようになっており、例えば忙しかった日や長旅の後などにヨガを行うと次の日に疲れが残りません。
精神的にもすっきりするため、気持ちの整理にもなります。
(部屋の掃除は滞りがちですが、実は部屋の掃除をすることもヨガ的にいいこととされています)
体の色々な部位がそれぞれ特定の感情と結びついているというのがヨガの発想です。
痛みを感じる場所には滞りがあるということになるのですが、自分の体のどこに痛みを生じているかを観察する事で、現在の自分の状態について知る事ができます。
もちろん、ヨガをしていれば全く健康になれるかというとそうではなく、風邪を引いたり持病の片頭痛が出たりもするわけですが、それは何かの警告症状(睡眠不足や疲労などに対する)であり、出るべくして出るものであるということがわかります。
私が15年ぐらい学んでいる中国医学は、心と身体の関連について言及はするものの、臨床においてはむしろ身体に焦点が置かれることが多いと思います。
臓腑論などで心の問題を考えると、あくまでそれは五臓の不調和や体質的問題としてとらえられるため、治療としてはそのほうがわかりやすいのですが、患者さんが病院を出た後、つまり普段の生活の中での心のありようについてを問うことがやや難しくなります。
インドの古典医学と中国医学は似ている点も多いのですが、ベースになっている哲学(というか宗教)の違いで根本的に異なっていると思われるところもあります。
薬についてはより日本人に親しみのある漢方薬を用いるほうがよいでしょうが、理論的には相補的と思われる部分もあります。

日本では、ヨガはお嬢様たちの習い事と化しているのが現状ですが、本来は生活に必要なものとして位置づけられるものです。
ヨガの目的のひとつに、健康な肉体を維持して自分の大事な生命を守る(自分の体を粗末に扱わない)ということもあるのですが、本質的には精神面での安定、「ヨーガ・スートラ」における「心の動きの静止 (chitta vritti nirodha)」に向かい、すべての事柄の統一を目指すものです。
過去や未来の中に自分の心を置かず、現在に集中することでそれは成し遂げられるのですが、その過程には哲学者オイゲン・ヘリゲルの著作「弓と禅」の記述に近いものを感じます。
これは、禅那(dhyāna)の語源とヨガにおける八肢則の中の一つが同じであることと、禅と瞑想の関連性を考えると当然のことと言えます。
したがって、ヨガは宗教的色彩が強いものであり、その部分を抜いてダイエット目的をうたうヨガなどは、単なる器械体操の類にすぎません。
もしも、ヨガをやってみてすぐに飽きてしまったとしたら、そのような理解が出来なかったということでしょう。
ヨガについて言葉で説明できる部分はさほど多くなく、古典の記述なども非常にシンプルです。
多くのことは実践によって理解していくものであるため、ここで詳細は述べません。

宗教に対するアレルギーをお持ちの方も多いと思いますが、信仰と科学的態度が共存できるということは、多くの実例が示しています。
さらに、ヨガのいう宗教とは特定の宗教を指しません。
そのことを悪用するカルト教団もあるためそれには注意を払う必要はあります。
昨年は、相模原大量殺人や大口病院事件(目的はまだ定かではありませんが)など、優生思想が背景になっているのではないかという事件が発生しました。
このことを犯罪者個人の気質で説明しようとするのは問題の矮小化であり、こうした優生思想が多くの人に存在することは、事件後のネットの反応などで明らかです。
考えられる色々な原因があるのですが、筆者は宗教の不在もその一つと考えています。

ヨガを実践して認知症の周辺症状がかなりよくなった実例がありますが、疼痛の改善や精神面での効果など、高齢者にこそヨガをやってほしい理由がいくつかあります。
体の使い方が粗末であれば、いくら治療をしても痛みは良くなりようがありません。
ただし、高齢者は個々の体のゆがみが大きく、人数の多いヨガスタジオなどではかえって体を痛めてしまう可能性があり、実績のある指導者のもとで行う必要があります。
(筆者はinner journey yogaというつくば市の教室をお勧めしていることが多いです)
外来診療をやっていると、特に精神科でなくても、精神面で大きな問題を抱える人が来ることはよくあります。
そうした人の心はいつも過去や未来にあり、まず現在を生きていないということに気付きます。
そのことが自我と本来の心との解離を生じさせ、身体の不調の原因になっていると思う事もよくあります。
病院にかかることは、身体の問題に対する気付きを得ることになるかもしれません。
しかし、なぜそれが生じているのかに対する答えが表面的なものにとどまるかもしれません。
とくに高齢者がありのままに現在を生きる事は非常に難しく、その意味でもヨガは助けになると考えます。
また、ヨーガスートラなどの古典の読経も、精神面での効果が大きく、ヨガの座法がどうしても苦手な方にも是非おすすめしたいと考えています。


こうしてヨガの話を書きましたが、「医師」の私がかなり非科学的な話を書いているため、気分を害される方もいらっしゃるかもしれません。
しかしそうした科学者としての医師の「非科学性の一切の排除」という態度は、まだ科学的に証明されていないすべての事実を捨象することになるため、かえって事実から遠ざかる可能性があります。
例えば患者さんが何かのサプリメントを飲んだ、針灸や整骨に行ったという話を聞くと、すぐに見下す態度を取る医師がいますが、自分の治療に患者さんが満足していないと反省するべきところです。
(実際にある種のサプリメントや針灸は効果が報告されているものもあります。)
医学研究については、再現性の低さや研究デザインの設定による恣意性、ネガティブな結果を採用しないなどのバイアスが以前より問題になっていますが、数値のみでは完全に表現できない人体の反応を正確に記述することにはもともとかなりの困難があります。
それでも、臨床研究は勿論必要であり、我々は多くの研究の結果に基づいて医師として話をするべきです。
しかし実際の臨床において自分自身の処方が完全に科学的といえるかどうかを考えたときに、「非科学性の一切の排除」はかなり困難であるということが分かると思います。
ヨハネ福音書第8章3‐11節の内容は、非常に有名ですが、時代を超えて普遍的な教訓と言えます)
私は漢方の臨床をやっているため、EBMをぎっちり使うという態度が本質的に難しいのですが、それでも科学的に十分に実証されていないことが言いづらく息苦しい「メディカリーコレクトネス」をしばしば感じることがあります。
例えばある美容室の取り組みが非常に面白いと思っても、紹介するのに気が引けるということがあります。
科学的に正しいか?ということよりも、とくに美容などについては体験して効果を感じることに意義があると思いますが、美容業界も様々な意見の人がお互い意見の相違でいがみあっている状況であり、ここに医師が首をつっこむとややこしいことになるため、静観せざるをえないということもあります。
医療を否定する言説(反ワクチン理論やがん放置論など)はさすがに問題です。(たまに医師で反ワクチン派の人もいますが、その人物が往々にして例えば漢方家などであり、完全に我田引水の類だったりします)
しかし医療否定論者に多くの人が耳を傾けるのは、それが正しいからではなく「面白い」または「痛快である」からであり、それが支持されていること自体に昨年の米国で起きたトランプ現象に近いものを感じます。
「面白い」と「正しい」を両立させなければならないという、現代のリベラルが抱えているのと同質の問題を医療者も持っているわけです。
そのための一つとして、「非科学的」なものを全否定しないということも選択に入れるとよいのではないでしょうか。
医師の過度にメディカリーコレクトな態度は、ときに患者さんには不親切にうつるものであり、あくまでそれを貫くのであればそれについて十分かつ平易な説明をすることが必要です。


漢方などの代替医療を否定されている先生(私自身はその態度には一理あると考えていますが)の中には、西洋薬に対する信頼が非常に厚い人がいます。
しかし筆者は、一部の薬を除いて、薬の持つ効果は残念ながら今の所まだ高くない(かなり良くなってきてはいますが)と考えています。
漢方薬も同様です)
時折、薬が著効を示すことがありますが、むしろ例外的ケースであるにもかかわらず、多くの治療者はそうした成功体験にひきずられている可能性があります。
そのことが薬剤の検討の余地を潰していることが多いと予想されます。

例えば、脳梗塞後の治療で抗血小板剤と降圧剤が処方されている場合、それは再発予防のためであり必要なことです。
ただ、しばしばこれが予防的な投薬というより脳梗塞そのものに対して「治療的」であるかのように、医療者と患者双方で何となく錯覚されてしまっているということがあります。
しかしこれらの薬剤は発症してしまった脳梗塞をもとに戻すことはできません。
こうした事例は比較的多くあります。

新薬を使うのがより新しい治療を提供することになると考える方もいらっしゃると思いますが、発売後に有効性に疑問が提示されている新薬もあり、未知のリスクが付帯するというデメリットもあります。
例えば、私が学生の頃糖尿病の第一選択薬とされたSU剤ですが、最近はBG剤の有効性を示すデータが増えているなどもあり、長期的に考えるというのはこのぐらいのスパンになることもあります。

科学的な態度に基づく処方というのは、①目的のはっきりした、②医学的根拠に基づいた、③ポリファーマシー問題や薬剤相互作用などをクリアした、④服用のアドヒアランスが考慮された、そして、⑤長期的にみてその処方が妥当であるかを検討した、ものであるべきでしょう。
⑤が問題というのは、医学研究の多くで観察期間がさほど長くないことに起因します。

長期的な薬剤耐性の問題を考えたときに、風邪に最初から抗菌薬、鼻炎にレスピラトリーキノロンという処方はやはりあまり考えないのではないかと思います。
しかし、医療雑誌のアンケートではいまだに「風邪に抗菌薬を使う」という医師が多いことが分かります。
風邪に抗菌薬を使う事は、二次感染のリスクを考えると医学的に間違いではありませんが、降圧剤のように単剤でも二剤でも降圧目標が達成されればある程度OKというのとは違う問題を含んでいます。
風邪の二次感染のリスクは確かにありますが、比較的少数のケースについては個別に対応すべきです。
風邪に抗菌薬を処方する医師が多いため、世間的にも重い風邪には抗菌薬だと思われてしまっていることは、医療と社会との関係を考える際に問題となる点のひとつと考えます。

インフルエンザに対する一律的な抗インフルエンザ薬処方は、薬剤耐性株の発生する可能性という問題が以前から指摘されています。
抗菌薬との作用機序の違いなどから耐性株の出現は限定的という予測もあるようですが、耐性株の報告が複数あるため(タミフルの使用のしすぎに由来するものかどうかは資料から読み取ることはできませんでしたが、使用頻度のもっとも高いタミフルでのみ出現しています)、考慮すべき問題と考えます。

投与するかしないかを医師の裁量で決める現行の制度では社会的理由による投薬が多くなってしまうため、行政レベルでの規制の必要性を感じています。
そもそも、抗インフルエンザ薬を処方せずとも治るものに対し、早く学校に行きたいからという理由で処方するというのが医療的に見て正しいことなのかを、薬剤耐性問題とも分けて考える必要があります。
(予防接種は普及させるべきものですが、高価でありしかも打っていてもインフルエンザにかかる場合もあることで、すべての人に納得して打ってもらうのは困難かも知れません。)
日本だけで全世界の抗インフルエンザ薬の7~8割を使っているという記事がありますが、事実であればやはり普通の状況ではありません。
しかし日本感染症学会のガイドラインを見ても、抗インフルエンザ薬を「使わない」という選択肢がないため、これに沿った場合は処方しないわけにいきません。

長期的な思考で処方をするというのは現状では非常に難しいと思います。
しかし、予防医学が普及したあたりから、短期的な思考(その場の治療でうまくいけばいいという考え)でものを考えることは、態度として正しくなくなりつつあります。
医学知識としては、つねに医学雑誌や論文まとめサイト、新しい本などを見ていくしかないのが現状ですが、抗菌薬やベンゾジアゼピン系薬などのように、「普通に考えて良くないのではないか」というレベルで判断できるものもあります。その「普通の感覚」を時々意識的に取り戻すことが大事なのではないでしょうか。

そして、科学的な態度とは直接関係ありませんが、無駄な投薬や検査をできるだけなくしていくという経済感覚も、とくにこれから必要になると思います。
そのことを一日一日、その場で考えなおす必要があると考えます。

記事をいくつか削除しました

以前はとてもいいと思って通っていた、あるいは買っていたお店も、段々に変わっていくもので、今それらのお店を見てみるとちょっとどうかなと思う所があって、いくつかの記事を削除しました。

ブログに残っている記事中で紹介しているお店は今でもお気に入りのお店です。

削除した理由はそれぞれ、いくつかあるのですが、ひとまずここでは書かないことにします。

医療費の抑制と「不安」にまつわるさまざま

医療費の問題を考えるときに、「医療は贅沢である」という基本を思い出すことと、とりわけ女性に強い不安や恐怖に対処することで、不要の投薬や検査、処置などを減らすということを考えたりします。
女性本来の気質的なものなのか、社会的に与えられている役割のせいか、自分の体の変化や身の回りの人の変化に不安になりやすい人が多いようです。
そして、そういう不安の強い女性が育てた子供は、小さい頃からちょっとした症状で病院に行くことになり、男女問わず不安の強い子になる傾向があるかもしれません。
いつまでも若く美しくありたいのが女性ですが、そういう美容に対する関心も、実は自己の変化に対する恐れから来ているように見えることもあります。
そして、加齢による色々な体の変化も、病気のせいであり、したがって薬などで治るものだと思ってしまうかもしれません。
実際にそうやって医者を渡り歩く高齢者を(これは男女問わずですが)時々見ます。
また、例えば90歳をずいぶん超えたおばあちゃんが食欲がなくなったということで心配して受診される家族の方がいらっしゃいますが、その年齢で食欲旺盛というほうがむしろ不思議です。
高齢の方はあちこちが痛くなり、色々な不調が出るので、何とかしてやりたいという気持ちはわかるのですが、病院に行く以外の方法でそれを解決する方法を考える時期に来ているのではないかと思います。
 
変化することの何が怖いかというと、突き詰めると死により近づいていくから、なのですが、おそらくその恐怖は高齢になるほど強くなります。
 
知識で克服できるものではないかもしれません。
 
不安や恐怖は自然な感情ですが、そうした感情をいくら抱いても状況は変わりません。
医師に何でもないと言われて安心できればそれでいいのですが、時折何でもないと言われたことに逆に不安感を抱いてしまうことがあり、そうなるとその不安や恐怖は、自分を苦しめるもの以外の何物にもならなくなります。
 
不安や恐怖は生命の維持に必要な感覚であり、これをなくすことはできないのですが、体の調子が悪いと不安感が強くなり、はっきりしない医師の答えなどでさらに不安が強くなったりしているかもしれません。

中にはあらぬ心配をしてしまい、自分の中のありえない説(脳の血管が切れた、血管がつまった系の説が多いです)に従って、医師に検査をするように要求する人がいます。
 
ごくたまにそれが正しいことがありますが、あくまでレアケースです。
 
「デイサービスの看護師さんに検査をしてもらうように言われた」「家族に検査をしてもらってくるように言われた」と来院する人も多いですが、検査をする必要はないことのほうが多いです。

とくに看護師さんの話は、なぜそう言ったのか理解できないことも多く、気軽に検査など言わず受診をおすすめすればそれでよいと思うのですが、検査大好きの看護師さんもいるのでしょう。

異常がないことを説明しても検査の結果が正常であることまで見ないと納得できない。
 
目に見えるもの、数値化できるものしか信じないというのは、実は本能が鈍るという点でむしろより悪い方向に行っているのではないかと思いますが、多くの医師も目に見えるものしか信じていないため、これは医師の態度を反映しているともいえます。
 
患者さんを納得させるために検査をするという状況は極めてよくあり、正直な話自分もやっぱりしていますが、医者自身これが無駄だということをよく自覚しているはずです。(できるだけそうしないようにはしていますが全てやらないのはほぼ不可能です)医師のサイトなんかを見てみるとそういう本音がたくさん書いてありますが、あまり表に出ません。
 
私の知人でかなり知的レベルの高い人も、「めまいで病院に行ったら頭のMRIも撮ってくれなかった」とぼやいていましたが、医師が必要がないと判断したから検査しなかったことを「冷たい」と色付けしてしまうようです、
 
検査をした方が病院の利益にもなり、説明の手間も省け、より確実な情報を提供するという意味で誠実だと考える医師もたくさんいるでしょう。
前にも書きましたが、大学病院など研究機関の場合、研究のための検査を保険でやっていることもよくあります。
検査のやりすぎという点ではインフルエンザの迅速検査などが典型例ですが、日本人のインフルエンザに対する恐怖心はちょっと異常なレベルです。この点はアメリカを見習ったほうがいいかもしれません。
 
確かに、検査をより行う方がより確かで誠実ではありますが、問題はそれが将来的に現在の保険診療システムを維持するのが難しくなるぐらい医療費を食わないかということです。
 
開業医が医療機器を買ってしまうとどうしてもその設備を使うため検査が多くなりやすいので、どうせ買うなら超音波など汎用性の高い機械がよいのかもしれません。

院内にMRIを備え、ただの頭痛や「物忘れが心配なので頭を検査してほしい」人全員にMRIをやっている開業医の先生が実在したりします。
 
開業医はよろづ相談屋として、病気でも病気でないものでも人生相談も(あまりお役に立てないかもしれませんが)なんでも相談にのり、画像検査や専門的な治療などは地域の病院にお願いしてしまう方がよいのではないかと考えています。
 
開業医は経営の問題があり、どうしても点数稼ぎになる傾向がありますが、勤務医は逆に経済感覚がなさ過ぎて色々無駄遣いをやっています。
 
医師の良識のみでこれを制限していくのは難しく、やはり何らかの制度改革は必要なのかもしれません。
 
先日ある眼科の先生も書かれていましたが、たかだか100年の歴史の現代医学では、 病気とはみなされない、病名がつけられないということは非常にしばしばおこります。 漢方はもう少し歴史が長いので色々な症状に対し弁証することができますが、現代医学の文脈と合わないところが悩みの種です。

前述しましたが、病名がつかないと納得できないという人はたくさんいます。

そのため、例えば不定愁訴に「自律神経失調症」とか「プチ更年期」などの適当な病名をつけて患者さんを納得させようとする医師もいますが、誠意ある対応ではないと私は考えています。

医師の態度というのは大事です。患者さんを脅かさない、患者さんと適度な距離を保つ、分からないことはわからないと正直に言うなどです。
家父長的態度の医師のあり方は変わらないといけません。ドクターハラスメントという言葉が最近出てきましたが、医師が反省すべき点は多いと思います。

先日もある開業医に「コレステロールの薬を飲まないと死ぬ」と言われた患者さんがいらっしゃいましたが、この言葉にも相当脅しが入っています。
 
ある病院の先生も、「更年期以降はあなたはお母さんと同じ病気になりますよ」と、かなりの暴論を受診者全員に説明するというようなことをしています。

 現代医学は高血圧や高脂血症の弊害をあまりに強調しすぎてきました。
 生活習慣病という言葉がありますが、 一般的にイメージされる「病気」と生活習慣病は違うということをもう少し伝えていく必要があると思います。
血圧が急に高くなると死ぬと思っている人は未だにある程度いるようですが、それはかなり特殊な状況に限られます。

現在行われている特定健診にも問題があるのは、異常値の設定がかなり低く、検査をすると大抵の人が異常になってしまうということです。

この数値の異常を病気と捉えてしまい、不安になる人が非常に多いです。
 
医療は「患者さんに不安を植え付ける」ということを、今後できるだけ減らしていくべきでしょう。
 
特に高齢者にはできるだけ希望を与えるようにしなければいけません。
 
高齢者はしばしば、難聴などでコミュニケーションが難しく、そのことが不安を増大させていることがあるため、より便利なコミュニケーションツールの開発はこれからの時代必須です。(すでに開発されているものもあったと思います)
 
 
より根本的で実存的ともいえる、生きる上での不安や恐怖の救済という意味で、私はやはり宗教的な存在が必要と考えていますが、宗教がタブーになっている日本ではこれは難しいかもしれません。
 
 
高齢の患者さんの中には、「もうお迎えが来るのを待ってるんだけど」と言いながら病院に来ている人がいますが、名目上は高血圧の薬をもらいに来るということであっても、メディカルチェック的に受診をするのは悪いことではありません。
 
しかし、突然に起こる脳卒中や大動脈乖離、心筋梗塞などを通常の受診が予見できるかといえばそれは難しく、より慢性に進行する病気のチェックに限定されると思います。
 
 
 経済的な問題もさることながら、診療体制の維持も保険診療の維持のためには非常に大事です。
 
特に地域の躯幹病院の診療体制を維持するために、色々な課題がありますが、ある程度の受診制限や不急の時間外受診、救急車出動を減らすことも一つの大きな課題です。

夜間の救急外来にかかってくる電話でしばしばあるのは、「2,3日前から調子が悪かったけど痛みがひどくなってきて心配になった」です。

「心配になった時点」が受診時間であり、本来の緊急性と関係ありません。
ここでも「不安」の問題が出てきます。
自分の抱いている不安が「正しい不安」なのか、単なる杞憂なのか。
それを判断するのは相当難しいのですが(病気によっては夜中であろうと、一刻も早く来てもらった方が医療スタッフもかえって助かる事態もあるため)、あまり考えずにすぐに受診するのと、ちょっと立ち止まって考えてから受診するかどうか決めるのでは、自分の中にある本能的な感覚を使うという点でやはり違うと考えます。

以前ある医局秘書の方が「風邪で夜中の3時に救急外来を受診したら怒られた」と言い、同僚に「当たり前じゃボケ」と言われておりましたが、医局秘書のように医師の仕事をある程度把握している人でも、夜間救急が病院の人的リソースを消耗するということに案外無頓着だったりします。
「仕事があるので昼間これずに時間外に来た」という人もいますが、時間外診療でできることはかなり限られるため、また来るはめになります。
調子が悪ければ時間内に職場を休んで受診する勇気や、それを支えてくれる会社の体制も必要かもしれません。
 
もう一つ、ここで書いておきたいことは、「医師間の遠慮をどうやってなくすかという問題」です。
投薬を減らしたいという時に、他科との調整がどうしても必要になります。
ある特定の科にかかると、たくさん薬を処方され、他の科にかかるとさらに薬が増え…という問題ですが、色々な問題解決法が検討されているものの、結局は医師の自覚による部分が大きいのではないかと考えています。
多剤投与は臓器別に細分化された医療やEBM医学が本質的に持ちうるマイナスの側面と言えます。
医師個人の意識の問題としては、ひとまず漫然と薬を投与しないこと、他科の処方を必ずチェックすることなどがあります。
将来的には、ある患者さんがどの薬を飲むともっとも健康に過ごせるか、という所までAI(人工知能)にやってほしい所ですが、現状では医師同士でもう少し率直に意見を交わし合うということに期待します。これはすごく難しいことなのですが、なぜ難しいのかをよく考える必要があります。
お医者さんはなかなか頭が固い人が多いため、患者さん側はそのことを理解しておくとよいかもしれません。
そして、ずっと飲み続けないといけない薬は、「結果的に何も治していない」ということだということを双方が自覚することで、話は大分すっきりします。
そのアルツハイマーの薬に本当に飲む理由はあるでしょうか?
一つ一つ、面倒でも考えていく必要があります。


 

「天国ニョーボ」と、医療場面における民主主義、魂の問題など

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天国ニョーボは、単行本は買っていないのですが、漫画の部分を持ってきてもらって時々読んでいました。
この漫画は、作者の妻(よしえさん)が乳癌にかかり転移性脳腫瘍を発症、最後に死去されるまでの経過を書いたもので、病気の進行していく経過から家族との関わりなどが生々しくつづられており、読んでいて辛い部分がかなりあります。
それでも、作者が奥さんのよしえさんを本当に愛していたことは、漫画からしみじみと伝わってきます。
 
作者が生きつづけつことを願ったよしえさんはついに天国から漫画の中に降臨し、以前と変わらない天然キャラで楽しい騒動を起こしていくのですが、同時に、検診を担当した医師の不誠実さやテレビに出た有名な医師が実は全くいい医師ではなかった、息子がうつ病と誤診されてひどい目に合いそうになったなど、医師に対する痛烈な批判がこの漫画のもう一つのテーマとなっています。
 
確かにこれはひどい…と思える事例満載なのですが、精神科の誤診についてはまあ…正直よくあることでもあり、私の知っているテレビに出ている先生も実はアレな人だとか、妙に威張る医師がいまだに多いとか、ある程度知っている側からするとよく聞く話だったりします。
患者さん側はこうした話をあまり知らないと思うので、作者の誇張ではないかと思うかもしれませんが、多分本当の話です。
やっぱり病院を知名度やブランドで選んでしまうとうまくいかないことも多いだろうと、こちらはそう思えても、当時の作者がそうせざるを得なかったというのも読んでいるとわかります。
 
ネットの近藤誠氏(がんの化学療法などに否定的見解を持ち、放置療法を主張している放射線科医)に対するバッシングを良く知っている人なら、作者が「近藤誠理論」に傾倒していたことについて「作者は近藤氏に騙された」と思うかもしれません。
作品を読んでいても、作者の治療に対する希望が、近藤理論から最先端の治療からゴッドハンド…と揺れ動いてしまい、一貫性がなく、結果的に担当医との関係が悪化してしまっているように見えるところもあります。
作者は、当初はよしえさんの希望を十分に聞き、標準的な治療法に従っていました。
自分の中にある「本当は近藤理論の方がいいのではないのか?」「たくさんある選択肢の中で色々選べるというのががん治療の専門施設だと思っていたのに、現実は標準治療を押し付けられるだけ」という思いは胸の内に抑えていたわけですが、そのことも現在の後悔の原因になっているようです。
(少し後になって近藤医師の外来を受診しようとしたときに、予約があまりにもとれずに憤慨する場面もあります。)

「たくさんある選択肢の中で色々患者が選べるのが専門施設」というのは普通に考えてもありません。
そもそも保険診療なので、標準治療をやることが前提ですし、特に拠点病院であれば標準治療を実践することが求められるはずです。

(この「標準治療」というのが患者さん側から見たときに金科玉条のごとく振り回されていないか、というのは、医師側が十分に注意しなければいけない点だとは思います)

どの治療法が適しているのかを判断するのは、患者さんとの相談の余地は十分あるとはいえ、最終的にはやはり医師です。
医者自身が治療法を選択し、そのことに対する責任を引き受ける」ことができなければ、それは医師の仕事になりません。
(医師が責任を本当に引き受けているかについてはかなり議論の余地があるかもしれません。すべてを一切医師に押し付けるというのも極論ではあります)
テレビでは最新の治療や「名医」のストーリーや、ユニークで効果がありそうな治療法についての番組が頻繁に消費されており、それらはいかにも素晴らしく見えるのですが、ショービジネスなので、語られていないことが存在しているということに想像力を働かせる必要はあるかと思います。

作者は久下部羊の小説「悪医」に出てくる主人公・小仲のような「がん治療難民」になってしまっていたかもしれません。
しかし、作者がなぜ浮足立って揺れ動いたかというと、一番大きな理由は主治医との信頼関係がうまく築けなかったからであり、その経緯ががん治療における問題点の縮図のようになっているからです。

この漫画の中で、ゴッドハンドの医師に妻の脳外科手術をしてほしいと言った作者に対し、「今の脳外科手術はテクノロジーですからゴッドハンドなどはあまり関係ありません」と言い放った医者が、手術後「電極が外れていたため病巣を取りきることができませんでした」と言う非常にアナクロなミスを説明するというシーンがありますが、あまりに皮肉すぎてさすがに笑えません。

もし自分の大切な人ががんになってしまったとしたら、できるだけいい医者にかかりたい、ゴッドハンドの医者にかかりたいというのは誰でも思うはずです。
しかし医師にとっては、ゴッドハンドも万能ではないということが自明であり、かつ患者さんが集中する人気の外来が治療技術的に必ずしも最良ではないことを見ています。
それらの人気の外来では、治療自体というより、先生の人柄に患者さんが集まっていることもよくあります。
治療技術や学問的に最も妥当な治療を行う事に最も重きを置いている先生であれば、患者さんは医師を見る目がないと思うかもしれません。

正直に書くと、もしも自分の患者さんが、作者のような旦那さんと一緒に来られたら、大変だろうな~とは思います。
それは、病状の説明が知識の豊富な御主人への説明メインになってしまい、肝心の奥さんに対する説明、奥さんの気持ちがどうなのか、ということにこちらの注意がいかなくなる可能性があるからです。
私個人の経験でも、奥さんが病気で説明のために夫婦で来院された場合、ご主人が主に質問し(もともと医師に不信感を持っている人も多く結構攻撃的なこともあります)、奥さんは頷いているだけという状況が往々にしてあります。

奥さんのみにきちんと説明をしたとしても、後日それを聞いたご主人に再度説明…とループしてしまったりします。

診療場面における「民主主義」についてしばしば考えるのですが、治療方針の決定について、参加する人が多ければよいというものではないということは実際にやってみるとわかると思います。
夫婦2人であっても、考え方がそれぞれ違うためどちらかに妥協せざるを得ないという場面もあるでしょう。
ご主人がオピニオンリーダーだとしても奥さんが納得されていればそれでいいのだという考えもあるでしょうが、すべての人がそれぞれ自分の価値観を持っているわけですから、私は可能であれば、患者さんご本人の権利を注意深く守る方がよいと考えています。

これとは逆の夫婦の例を挙げると、ある家庭のご主人が癌になり、近藤誠の本を読んでいたため積極的に治療せずに亡くなったということがありました。
この件の詳細はよく知らないのですが、ご主人はそれで満足だったかもしれなくても、奥さんや子供さんの意見はもしかすると聞き入れられなかったかもしれません。
残された奥さんや子供さんは悲しむと同時に、釈然としないものを感じていたかもしれず、これも一つの選択といえばそうなのですが、あまり民主的とは言えないと思います。

天国ニョーボのエピソードはこうした「医療場面における家族間の民主主義」についても考えさせられるものです。
 
さらに言えば、知識を共有し「民主主義」を促進するかに見えるテレビ番組や雑誌の記事などが実は患者さんの味方ではなく、医師側の使い走りであったり、特定のイデオロギーを持つ人物の言説だったり、全く根拠のないデマだったりと、さらなる混乱に誘導していたりします。(もちろん本当のことも言ってはいますが、聴衆にとって退屈な話が多かったりします)
その結果として、一般内科の診察室では血圧やコレステロール値を過度に気にする人や、「何を食べたらいいのか」というテレビ番組的な質問を医師に聞く人が多数いて、話がそれに終始してしまうということがしばしばあると思います。

(逆に、コレステロール薬については、稀な副作用である横紋筋融解症が過度にクローズアップされたり、製薬会社が売り上げを上げるためにコレステロール薬の研究データを改竄しているなどの噂が絶えません。
研究結果の改竄(まではいかなくても若干の脚色)の検証は医療が専門ではない人には難しいため、そうしたことの真偽や薬のリスクとベネフィットをそこまで考えず、ただ絶対に薬を飲みたくないという人が一定数いたりもします。)

「医療における民主主義」をもう少し広げて、医師と患者、病院のスタッフ間、医師と代替・補完療法家間などの民主主義などを考えると、日本の状況が理想的なものとは程遠いことは容易に理解できます。
民主主義という言葉をすでに聞き飽きている向きの方もいらっしゃると思いますが、政治はともかく、医療や科学において、民主主義的なあり方はいまだに理想的といえるものです。

医師側の問題については、書くと文章が長くなりすぎてしまい本題から大幅にそれそうなので、ここでは省略します。
(本当は省略したらいけないんでしょうが…一冊本が書けるボリュームかもしれませんのでお許しください)
患者さんについて言えば、知識をたくさん持つのが必ずしもよいということでもなく(何かあった時により正しい情報が引き出せる情報リテラシーなどはあるといいかもしれません)、体調の変化を自分で冷静に観察し、不安にかられずに、客観的に見て医師に行くかどうかをある程度判断できる、睡眠や運動、自分が食べるべきものなどは自分の体に聞いて判断するなど、自分の中の数値化されない、より本能的な部分を軽視しないことが大事と思いますが、肝心の医師側が目に見えるものしか見ないということもよくあり…問題の根は深いところに存在します。

より根本的な問題としては、患者さんが医療機関を受診しようという時に、全国の医療機関の情報が十分に公開されていないということがあります。
私自身も、少し遠くの医療機関に患者さんを紹介する場合、どこがよいか調べることになります。
自分の専門分野ならどの施設にどの先生がいるということを把握するのは比較的簡単ですが、専門外になると分かりません。
ましてや患者さん自身が調べるとなると「とりあえず大きな病院」ぐらいにしかならないのではないでしょうか。
そこで必ずしも満足のいく治療が受けられず、口コミやネットで検索などして調べるしかないというのが現状で、どう考えても情報が足りない上にその情報がしばしば偏っています。

ネットで医療機関を検索して「有名な病院にかかりたい」という人は多く、その多くはそこまで行く必要がないというものだったりしますが、ブランド以外にいい病院が判断できないことがブランド志向の理由です。
しかしその有名な病院に行っても、入院した場合などは、看板の先生ではなく若い先生であることはしばしばです。
名医のいる病院ガイド本なども実際は広告的なものが多く、あてにならないことはすでに知られているようで、最近その手の本の話をそういえばあまり聞きません。
(まだあるんでしょうか?)

医療機関情報の公開については、十分にできない理由というのは多々あると思いますが、医師の団体などが率先して行うべきものではないかと(そんなことあるはずないのは分かりつつですが)思います。
 
癌患者さんの場合は標準治療を受けて、治療が思わしくなく症状が進行した場合、他の病院への転院を勧められることが往々にしてあります。
癌の患者さんを最初から最後まで見てくれる先生は多くの場合いません。
このことも医師・患者関係の構築を難しくしているかもしれません。
抗癌剤放射線療法も、時として厳しい副作用を伴います。
治療経過が思わしくないので転院を希望すると「ご自分で探して行かれるのは結構ですが、もううちでは診ません」と脅しのような言葉で返されてしまいます。
そうして標準的な治療をしたのに治療効果が上がらず、医師からはより規模の小さい病院などへの転院を勧められ、見放された気分になります。
もう自分の命は終わってしまうのだと絶望に苛まれます。
そしてネットを見てみると、なんだか素晴らしく効果のあるような「免疫療法クリニック」の文字があり…実際には効果のない「治療法」に多額のお金をかけてしまう人を笑う事はできないと思います。
(近藤誠理論もこうした状況へのアンチテーゼとして、治療というよりはイデオロギー的に一部の人達に支持されています。)
天国ニョーボの話もまさにこうした問題点を抱えて経過しています。
この話の流れの中では当然のこととはいえ、身体の問題に話が集中しており、特に標準治療を進める病院の診療の中で「治療の一つのサンプル(n)」として扱われていることへの不全感や(多くの人が自分は(n)にはなりたくないはずですから)、治療がうまくいかなかったときの医師の冷ややかな態度に無責任な感じを覚えるなど、「人間らしさの喪失」に対する作者の強烈な反感を感じ取ることができます。
医師側は、「素人に何がわかるんだ」という態度を崩さず、患者側は色々な本を読んだり調べたりしているものの、やはり枝葉末節的な知識を持ってそれに対抗しようとします。
とくにこの場合、妻のよしえさんがとても大切な人であり、作者の何としても生きてもらいたいという思いが非常に強く、話はやはり治療のことに集中しています。
結果的に今のところまでですが、「よしえさんが今の状態でよりよく生きていくためにどうするか」という話はそれほど出てきておらず、そのまま、よしえさんの病状は漫画上ではかなり悪化してしまっているようです。

治療場面における「人間らしさの喪失」は、がん患者さんに精神的な色々な問題を引き起こすことがあります。
がん患者さんに起こる精神面の問題について、リエゾン精神科やカウンセリングなどの方法はあり、それらは十分に活用されるべきですが、担当医師がそれを精神科やカウンセラーに完全に丸投げすることはできません。またそうした人材も圧倒的に不足しているのが現状です。

よしえさんが、もしも最初から筆者の思う通りの治療をしていればもっといい経過だったのかはわかりません。
もしかすると治療法を変えてもそれほど大きな差はなかったかもしれません。
奇跡は起きることも起きないこともあり、それほど人間の体は精妙で複雑なもので、医学が分かっていることというのはほんの一部に過ぎません。
それでも後悔せざるを得ないのが人の心だとは思います。

(実際、医師の言うことに従っているのが絶対によいかというと、必ずしもそうではなこともあります。
ネットで検索した医師の所にかかりたいと言って担当医から「もううちには来るな」と言われ、それでもその医師の所に行って治療を受けた結果、最後には本当に良くなった人がいます。そこに至るまでに紆余曲折があったのですが、その方の聡明さと粘り強さの勝利であり、全ての人が同じようにうまくいくわけではないかもしれません。)

診断技術、治療技術など、技術的なことを言うのであれば、人間の医師はそのうち人工知能にかなわなくなるかもしれません。
気分や調子に左右される人間より機械の方が安定して治療をおこなうことが出来ます。
人間の医師が現時点でかなうものは、「人のみが人を救える」という、より分かりにくい、魂の救いに関わる部分なのかもしれないと思います。
それすらも人工知能で可能になってしまうと人はもはや人でなくてもよくなるでしょう。
勿論現時点での治療技術は最善が尽くされるべきです。
そのためにやることも山ほどあるのではないかと思います。
現在の保険診療の枠組みの中でできることも限られており、お役人はやりたがらないであろうという感じですが、個々の医療者の小さな努力で少しづつできてきているものもあります。
最近では医師以外の医療者やケアマネ、カウンセラーなどの人達がたくさんこの分野に参加しており、今後より民主的なものになっていくかもしれません。
 
患者さんの治したいという気持ちと、医療者側の思いがぴったりうまく繋がると、思いの外よい治療効果が出るということを経験します。
思うような治療効果が出なかったとしても、それはそれで、お互いに納得できる点が見つかるということもあります。
(言い訳がましいのですが、がんの場合はおそらく比較的特殊な状況がより多いかもしれません。通常の慢性疾患を持っている方の中には、いろいろな理由で生活習慣や食事、時間の使い方や体への向き合い方を変えてまで病気を治したくない、自分の考えを変えたくないなど、病気と真剣に向き合っていないということがしばしばあり、この場合当然のことながら、治療効果は思わしくありません。)
医師と患者さんの間にはやはり相性の問題もあるでしょうし、お互いがいい関係を築くことはそういう意味で大事だと考えています。

現在癌の闘病記をネットで書かれている著名人のブログ記事を読む限り、彼女は、素晴らしい先生との出会いによって、魂の救済を得たように見えます。

私は、この(今の所)人間の医師しか持ち得ない部分が、一つの鍵になるような気がしています。
ただしこれも、見えるものしか見ない人の多い現代では意味のないものとして真っ先に切り捨てされていくものなのかもしれませんし、言葉の持つ宗教的な感じが嫌われてしまい、むしろ話が回避される類のものかもしれません。

「悪医」の小仲も、魂の救済を得て、最後には安らかな眠りにつきました。
こうしたことは宗教家の専売特許というものではありません。
よしえさんも、色々なことはあっても最後にはきっとダンナの一途な愛に救われて、お釈迦様やキリスト様がいるにぎやかな天国に召されていったのではないかと想像しています。

漫画で提示されている色々な問題点も含めて、医療従事者(というか医者)も、そうではない人も、一読に値する漫画ではないかと思います。

最近私がワイン屋さん「土浦鈴木屋」をおススメする理由

*前回ヨガの話をして今回またワインの話…と、色々矛盾しているこのブログですが、私的にはさほど矛盾していません。その理由は書くと長いのでここでは省略します。

 

土浦鈴木屋さん(HPがあるのですが最近サーバーが時々不安定で表示されないことがあるようです)は、昔から知っているワイン屋さんではありました。

巷では有名なお店のようで、何と25万本のワインを持っているとのことです。

私がまだそれほどワインを知らなかった頃、連れ合いと池袋で食事をすることになり、鈴木屋に行っておすすめのワインを買い、そのまま池袋まで持ち込んでいただきました。

何の銘柄のワインを買ったかは書きませんが、そのワインは現在はものすごく高くなっていてとても買えません。(ヴィンテージ違いのものは当時からすでに高額すぎて買えなかったのですが)当日持ち込んで飲んだにも関わらずとても素晴らしいワインでした。

ただしその後、いくつかの点で店頭のワイン管理に問題があると思ったためしばらく買うのをやめていました。

あと正直な話、ある程度ワインについて分かるようになってからお店に行って、その都度社長さんに完全に「ワインを知らない人」扱いされていたのですが(向こうはプロですからしょうがないとは思います…)、女と見ると客を初心者扱いするワイン屋さんは実はまだ結構あると思います。

そういう所に相性の悪さを感じていていたのですが、最近どうしても鈴木屋でしか売っていないワインが必要になり、まずはネットで買ってみることにしました。

鈴木屋とうちの距離がどのくらいかは書きませんが、宅急便を頼むとお店の人に笑われる距離であることは確かです…。

そもそもどうして鈴木屋のワインが必要になったかということですが、

ボルドーの古酒をネットショップで買うと、そんなに安くないのに8割は劣化している。

②ならばと、イタリアワインを買うようになったらどこも同じような味がして飽きた。(というとイタリアワインファンの皆様に激怒されるかもしれませんが、若いワインはどうしても味わいの深みにやや欠けると思います。イタリアのビオ系で挑戦的なつくりをしているワインを結構飲みましたが、正直?というものも多いです。ファンも多く、お店もすごく宣伝しているので、こちらの味覚が悪いのではないかと思ってしばらく飲みましたがやっぱりあまりいいと思えません。好みの問題かもしれませんが、イタリアンのシェフで同じことを言っている人もいますので私だけそう思うのではなさそうです)

③コンディションに定評のあるワイン屋さんでワインを買っても結構失敗した。

お店の方が非常にこだわってワインを売っているので、あまりいいと思えなかったワインについて正直に書いたら、とても誠実なお返事を頂きました。

でも、そのやり取りの中でどうもその人が(おそらく無意識に)ついている嘘に気付いてしまったため、とはいえちょっと…という感じになってしまいました。一度きりのことだったらよかったのですがそうではなかったということもあります。

スペインワインに興味を持つようになった。

スペインワインボルドーワインに比べて安価で、イタリアワインより状態がいいものが探すと結構あります。アルコスというスペインのビオワインを扱っているお店があり、そこのワインはなかなか美味しいと思いました。しかしバリエーションがそれほどないのでもう少し他のものを買ってみようと思いました。

他にもスペインワインを扱っているお店がありますが、原価率とかの話を色々聞きまして、あまり買わないでいます。

ということです。

要するにかなりワイン屋さんに騙されてしまった結果ということになります。

自分でも無駄としか思えないいきさつですが、無駄なものの中に人生そのものがあるというのが家訓です(家族の誰も言っていませんが)。いつまでもワインを買うつもりはなく、ブルゴーニュワインは実際たまにしか買わなくなっていますが、それ以外のワインはもう少し飲む都度買う必要があります。

 

前置きが長くなりましたが、宅配で頼んだワインがとてもよかったので、久しぶりに鈴木屋に行きました。

数年前と比べてお店がかなり変わっていました。店先が遮光され、お店の中のワインは安価なワインも全て、一定温度で管理されています。以前は店先のワインは温度変化に晒されていると思いましたが、今はそういうことはなさそうです。

お店には若い男性が2人いて、ワインにも非常に詳しく、かつとても親切です。当然だと思いますが、女性だからどうこうということは一切ありませんでした。

そして、かなり曖昧な説明でこういうワインを探して欲しいと言ったのですが、ジャストでその通りのワインを選んでくれました。

鈴木屋のワインはヴィンテージが古くてもフレッシュさがあるため、お店の人の言う飲み頃は、他のワイン店の人が言う飲み頃よりかなり遅めです。本来そうあるべきだと思いますが、他のワイン店は売り上げのためにやっぱりちょっと嘘をついているかもしれません。

勿論、鈴木屋さんで買ったワインの全てがジャストで好みというわけではなく、ちょっとこれは違う…というものもありましたが、ワインの状態は総じてよさそうです。

ネットなどで鈴木屋の評判を見ると、あまり良くないものや、本当かどうか分からないことなども色々書いてありますが、個人的には数年前より今の方がよくなっている可能性があると思います。

あるボルドーの古酒を買って飲んでみたのですが、実に素晴らしく、その辺のブルゴーニュワインがまがい物に思えるぐらいでした。きれいに熟成したボルドーワインのポテンシャルはブルゴーニュワインを凌ぐと思います。ただ、あまりにそういうものが少ないため、多くの人はブルゴーニュワインを求めるのでしょう。

そのワインは、オフヴィンテージのマイナーなラベルのワインであり、楽天などに出しても見向きもされないかもしれません。しかし状態がよければ、オフヴィンテージの方が酒質が柔らかく、よりブルゴーニュ的と言ってもよさそうです。

若いボルドーなんて…少なくとも我々は一級格付けだったとしても、何の魅力も感じません。

鈴木屋はブルゴーニュワインも多数扱っていますが、スター生産者のものは、ポンソなど以外は少ないかもしれません。ポンソなど一流生産者のワインはネットショップよりやや高額だと思います。状態はよさそうですがとりあえず高いので私は買えません。

日本酒も色々扱っていますが、残念ながら日本酒のセレクトは我々とそれほど好みが合わないようです。日本酒は好みの問題が非常に大きいと思います。しかし本当に日本酒が好きな人は試してみるとよいかもしれません。

オリーブオイルもいいものを扱っています。

お店の人と他の輸入元の話を少ししたのですが、輸入元によってはワインをかなり原価より高くして売っているところもあるようです。リーファーコンテナとかで必要な経費はあるでしょうがそれにしても…という話のようです。日本人が高いワインをいいワインだと思うのはその通りで、それに乗せられているわけですから、騙されないようにしないといけません。

ただ、そういう輸入元のワインが実は今かなり人気だったりします。

鈴木屋はネットショップも色々なワインがありますが、実店舗に行くとネットに載っていないワインが結構あります。先日それでかなりいいワインをお値ごろで買えましたが、うまく愛好家の人が乗ってくれると土浦観光にとってもプラスになるかもしれません。

欠点としては、セールスのアピールに乏しくて全体に地味だという所です。ネット通販では確かに地味すぎて他のお店に負けそうなので、もう少し頑張ってほしい所ではあります。

とりあえず私はしばらく鈴木屋さんで色々なワインを買ってみようと思っています。