pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

脱北者ラッパーの歌を翻訳してみた

www.youtube.com

(追記:ブログ記事にしてみて、日本語的に少しおかしい部分を微調整しました。)

내 출생지는 북방의 86년생 범띠
俺は北朝鮮生まれ 86年生まれの寅年
돼지새끼보다 3년 늦게 태어났네
あの豚野郎(金正恩)より3年遅く生まれたよ
하지만 어릴 땐 너란 존재 자첼 몰라
だが幼い時はお前の存在も知らず
먹고 살기 바빠 거리를 헤매기 일쑤
ただ生きて、食っていくのに必死で街をさまよう日々
내 가사엔 펀치 라인 필요 없는 의미
俺の歌詞にはパンチもラインも不要な意味
뱉는 거 자체로도 벅차네 그 의미
語ることすら無理難題な意味
후회해도 늦어 깨물어 꽉 어금니
後悔してももう遅い、ぐっと奥歯を噛みしめて
맞고 울며 도망쳐도 사정거리 니 mommy
殴られて泣いて、逃げても射程距離 mommy

그 땅은 리설주가 조국의 어머니
この地では李雪主(※1)が祖国の母
But she's not my 어머니 내 어머니가
でも彼女は俺の母じゃない
아오지에서 얻은 건 결핵
俺の母が炭鉱でもらったのは結核
땅굴 판 돈 착취해서 만든 것은 핵
坑道を掘った金を搾取して作ったのは核
Oh shit 배때지에 살이나 빼
Oh shit 痩せろよブタ野郎
도발은 그만 만들 때 됐네 식스팩
挑発はたいがいにして
作るんならシックスパックでも作っていろよ
눈치로 이제 점점 찌네
段々太ってきたのが人目についてる
망신살이
大恥もんだぜ
디스는 충분 풀게 이제 내 얘기
あいつをdisるのは十分やったから次は俺の話
반통짜리 몸뚱아리 반통짜리 정신머리
半分の体、半分の心(※2)
반통짜리 어디 가니 금 밟으면 뒤져
半分、どこに行っても線(38度線)を踏んだら死んじまう
붙혀 나라 오공본드로다가
オゴンボンド(※3)とかで国同士をくっつけよう
옆집 아주마이 몰래 주머니를 뒤져
隣の家のおばさんがポケットをくまなく探している
내 새끼 조막손에 피 묻었네
私の子(※4)の縮こまった手に血がついている
내 새끼 종아리에 거머리가
私の子のふくらはぎに蛭が
달아 달아 밝은 달아 아침 좀 늦춰 다오
月よ月よ、明るい月よ、朝がくるのをちょっと遅らせて
내 새끼 살린다면 내 숨은
私の子を助けるなら私の命を(差し出してもいい)
그때 걷어가도 좋소
あの時歩いていってもよかったでしょう
순수하게 호랑이가 담배 피던 시절
無垢な虎がタバコを吸ってた頃
10살 때 나도 형들 따라 담밸 물었지
10歳のころには俺も兄貴たちについてタバコ集めをしたんだ
처음엔 괴로웠지만 점점 빠져드네
最初は辛かったけど段々ハマっていった
괴로운 인생보다 훨씬 달콤했기에
辛い人生よりはるかに甘かったタバコの味
12살 때 새로운 세상에 발을 들여
12歳の時、新しい世界に足を踏み入れた
땅을 밟은 순간 눈알이 튀어나올 뻔
その地に立った瞬間目が飛び出たぜ
타임머신 타고 미래로 건너왔지만
タイムマシンに乗って未来に来てはみたが
기쁨도 잠시 여기저기 먹잇감 신세
喜びもつかの間、あちこちエサの世話(※4)
벙어리 된 신세 개같이 숨어 다녔어
啞者になった身の上、犬のように隠れて回っていた
해가 지면 좀비 마냥
陽が沈んだらゾンビのように
 거리를 기어 나와
ひたすら道を這って出てくるんだ

니코틴 중독 바닥에 꽁초 주워 피며
ニコチン中毒になって 道に落ちてる吸い殻吸って
흘린 빵 떡가루 주워서 끼니를 때웠네
落ちてるパン屑や餅の粉を腹の足しにした
애들 공부할 때 국적없이 방황을 배워
他の子たちが勉強している時俺は国籍なくさまよい
결국 뼈가 되고 살이 되었네 지금은
結局それが今思うと身になった
배고파도 한 가지는 안 버린 자존심
腹が減っても自尊心は捨てない
하나로 버텼네 유소년 시절을
その一つで持ちこたえた幼き頃
 
반통짜리 몸뚱아리 반통짜리 정신머리
반통짜리 어디가니 금 밟으면 뒤져
붙혀 나라 오공본드로다가
옆집 아주마이 몰래 주머니를 뒤져
내 새끼 조막손에 피 묻었네
내 새끼 종아리에 거머리가
달아 달아 밝은 달아 아침 좀 늦춰 다오
내 새끼 살린다면 내 숨은
그때 걷어가도 좋소
(繰り返し部分のため訳は省略)

열여섯 살 되던 해 조용한 새벽
俺が16歳の時のある静かな明け方
갑자기 어둠이 내 가족을 덮쳤네
突然俺の家族に問題が押し迫った
협박 공갈 모두 버텨 지하 철창 속
脅迫や恐喝、すべてこらえて地下の鉄格子の中
남은 건 철창보다 괴로운 인생 길
残っていたのは鉄格子の中よりもっと辛いこれからの人生
위기모면 난
危機を免れた俺は
 다시 미래 향해 여행
ひとまず未来に向かって旅行に出た
필리어스 포그처럼 80일 간의
Phileas Foggみたいに、80日間
세계 일주 아니어도 지도 한 장
世界一周まではいかないけど地図一枚分
배짱과 함께 돌았네 지구 반 바퀴
固い決意とともに、地球半周
지금은 내 발에 신어진 하얀 jordan
今俺が履いているのは白いjordanの靴
그땐 고무신조차 없던 맨발 소년
あの時は、ゴム靴もなく、裸足の少年だった
겁 없이 베트남 라오스 캄보디아
恐れずにベトナムラオスカンボジア
싸와디캅 태국 거쳐 드디어 대한민국
サワディーカップ!(※5)タイを経て、ついに大韓民国に来た
난 다시 태어나 대한남아 눈 감아
俺はその時生まれた 韓国男児よ目をつぶって
목 놓아 참아 냈던 눈물 모두 쏟아
首を据えて我慢してきた 涙は出尽くしてしまった
마침내 도착했네 바라던 새 터전에
ついに到着したんだ 願っていた新しい挑戦
인생은 재 시작 But 이 악물고 새 시작
人生は再スタート but 歯を食いしばって新たなスタート
이건 내 살아온 인생 절반의 노래
これは俺が生きてきた人生の前半の歌
그러나 어디선가는
けど、どこかで
아직도 못 듣네 이 노랠
この歌も聴けない
내 가사 속에 잠든
俺の歌詞の中で眠っている
수 많은 부모 형제 친구들
数多くの両親、兄弟、友達
부디 평안하게 눈 감아 주길
どうか安らかに目を閉じてください
나눠진 땅에서는 끝나지 않을
分断された地で、終わらないであろう
never ending story.
The story will be Continued.


<注釈>
この歌詞は私には訳が難しく、間違っている部分もあるかもしれません。
間違いを発見した方は私のツイッターアカウント(@zhishangtanbing)までメッセージを頂けますと幸いです。
今の韓国では使わない北朝鮮の単語も混じっています。
若者っぽい表現にしようかと思いましたが歌詞自体がやや古典的なため、ほぼ直訳にしましたが、意訳している部分もあり、日本語の表現を原文と変えたところもいくつかあります。
 
(※1) 金正恩の妻
(※2)  韓国に半分、朝鮮に半分という意味と解釈しています。
(※3)  接着剤のメーカー品
(※4) 二つあるのですが、この部分は良く分かりませんでした。とりあえず文字通り訳しています。
(※5) タイ語で「こんにちは」の意味

「イオの惨劇」の冬野ワールド

 
著者の冬野由記さんとは、実は面識があり、冬野さんの書いた絵をしばらく診察待合室に掛けさせて頂いていました。
面識はあるのですが、実際の人物よりもどちらかというとネット上の冬野さんの方をよく知っているという感じです。
 
pianqueのツイッターは当初、中医学に関する色々な情報や勤務先のスケジュールなどを発信する目的で始めたのですが、ツイッターのコミュニティをしばらく見ていた結果、現在単なる内面のつぶやきを発するものと化しています。
勤務先のスケジュールも書こうとは思ったものの、あのタイムラインを全部見てスケジュールをフォローする人などいないわけで、もっぱらHPでの公開となっています。
そのツイッターで冬野さんを知ったのですが、家に置いてあった絵の描き手であることを知ったのはかなり後のことです。
 
うちには本棚がいくつかあり、仏教書コーナー(といっても数冊ですが)に一緒にあった「イオの惨劇」という本のタイトルだけは前から見ていたわけですが、作者名にふと目が行ったのもなぜかつい最近(こういうこと、皆さん経験ないでしょうか?)で、冬野さんの書いた本ということで早速読ませて頂きました。
 
「イオの惨劇」はSF小説で、21世紀末が舞台になっており、地球以外の太陽系の惑星などにも人が住んでいて、かつ、特殊な能力を持つ「テレパス」という人たちが惑星間の通信を担っているという設定の物語です。
物語の中では東京は戦禍で荒廃しており、物語の舞台の一つに「月端」(現在のつくば市)が出てきます。もう一つの舞台が木製の惑星であるイオです。
主人公はリンとリョウという少女と少年。この二人は特殊能力を持つテレパスであり、それぞれ違う惑星に住んでいながら互いに恋愛感情を持つ特別な関係となります。
この二人と、周囲の人物を軸に話が展開していきます。
 
中学生以降ぐらいから、SFものはほとんど読んでいないpianque(新井素子とか星新一ぐらいしか覚えていない)、その理由は「リアリティを感じないから」だったんですが、今回久々にSFを読んでみるとなかなか楽しい。
文章自体の面白さもあるのでしょうが、最後まですいすい読み進んでいました。
考えてみればSF以外の小説だってフィクションと言えば全部フィクションなわけで、物語として面白ければジャンルで偏見を持つ必要もなかったのです。
 
この小説が書かれたのは2003年です。
当時はといえば、私がマックのノートPCを買ってワープロ代わりに使っていた頃で、学会発表は写真屋でスライドを作成し、スマホスカイプもなければ確かネット通販もそれほどはなかった時代。
と、ここまで書いた所で、2003年と今との違いがそれほどあるのかというと、ネット環境の普及ぐらいかもしれないとも思いました。
他にも地デジとか色々な違いがあるかもしれませんが、すぐに思い出せません。
2017年にこの小説を書いたら、ディテールは少し違っていたかもしれません。
しかし、我が職場を見返してみると、いまだに診療情報提供書をわざわざ患者さんに取りに行ってもらうとか、処方薬の情報が全く共有されていないとか、医師資格証の取得に医師会まで行かないといけないとか、紙の書類があきれるほど多いとか、色々な点で大してデジタル化されていないことから、ネットはまだ(少なくとも日本の、我々の業種においては)ラディカルに職場環境を変える所まで行っていません。
私たちが今「未来の社会」としてイメージするものと、2003年の人がイメージするものとは、大まかには違わないという気もします。
2001年宇宙の旅が2001年には実現しなかったことを考えると、我々の想像力は今のところ現実を上回っており、それは人間の文明にまだかなり進歩の余地があることを示しています。
 
SFを書くのは相当に色々な考察が必要なはずです。
時間や距離の感覚、構成、空間的想像力、書こうとしている事象について科学的に大きな矛盾がないかなど。
そのうえで自分の世界観を描くという作業です。
それを考えるのが作家さんの楽しみの一つでもあるのでしょうが、映画の製作に近いものがあるかもしれません。
この小説の一つの世界観が「電波などが届きそうにない惑星間の通信を、特殊な才能を持つ人間のコミュニケーション能力に委ねている」という点です。
この発想がSF界ではわりと普通のものなのか、pianqueには判断ができないのですが、「人間の心と心のやり取りが時空を超えて違う惑星まで届く」という解釈にすると、とても詩的な世界となります。
さらにこの話は、二人の主人公たちの愛の持つ力の理由が、この時代においてもまだ未解明のままであるという設定であり、文明が相当進化しても人間の心にはまだ未知の部分があるということになっています。
この「分からない所がある」ことが魅力を持つものです。
全てが分かってしまった世界で物語の面白さは生まれません。
 
この小説は他にも、詩的な部分がかなりあり、SFというジャンルがむしろその部分を表現するための表現方法であるようにも見えます。
スペース・オデッセイとしては、かなり序盤の部分で本が終わってしまっているため、いくつかの伏線が回収されず、時間軸がつかみにくいところもあるのは残念で、本来はいくつかの続編のあとに完結する話なのだと思います。
また、ストーリーの中に矛盾がないわけではないのですが、これはSFものを見るとたいてい少しはあるので、そこに目くじらを立てる必要はないでしょう。
 
それよりも、小説の細部に、作者の持つ世界が散りばめられており、それがまとめきれなかった、そういうコンテクストの(過剰ともいえる)豊富さを感じます。
 
政治的にこの小説で描かれる時代である21世紀末のレジームがどうなっているのか、現在の我々には想像もつきません。
2003年よりも現在の方が、民主主義の限界が色々見えてきており、かといってそれに代わるイデオロギーがまだ今の所見つかっていません。
東西や左右の対立よりも経済格差による対立が鮮明化してきている時代でもあります。
また、この本が書かれた頃にはあくまで仮想だった米中戦争は、この頃よりは現実味を帯びてきています。
SNSが世論を形成し、それがまだ主流ではないものの、「保育園落ちた日本死ね」のように、ネット世論が政治を動かす実例も出てきました。
この小説の中では核戦争は出てこないのですが、起こる可能性もなくはないぐらいというぐらいになっています。
 
もしも私が未来のレジームをSFとして描くのであれば、やや戯画的に、人間に政治的なアイデアを出させて行政官僚をすべて人工知能にする(そうすれば官僚の腐敗を予防できるだろうから)というアイデアにすると思います。
ただ、それだけでも、最善と思われるイデオロギーよりも強力にレジームを変えてしまうかもしれず、人工知能を話に入れてしまうと全てのディテールを一から考え直すことになるのかもしれません。
私にそんな筆力はないため、よほど時間をかけて練らない限りこの思い付きはお蔵入りするでしょう。
この話の中に人工知能はあまり出てこないのですが、SFが表現の方法であるという見方にたつと、その方がむしろ分かりやすい話になっていると思います。
 
この小説の中では、政治的、歴史的な変遷についての挿話がいくつかあり、ここはSFになじみがあまりない人にも読み応えのある部分です。
イデオロギー的に未来の政府がどうなっているかは書かれていませんが、この世界の中では宗教はまだ存在しているようです。)
そういう部分もあれば、恋愛小説的な部分、小説としての写実性にすぐれた部分、作者の豊富な趣味をうかがわせる部分もありで、むしろこの作者自身に興味を持つ人がいるのではないかと思ったりします。
私は、残念ながら芸術的な才能にはほとんど恵まれず、センスに関わる話は全て連れ合いに任せている人間なのですが、作者の多才ぶりを羨みつつ、小説の続編を心から期待しています。
とはいえ、こういう小説形式ではなく、作者がもう少しエッセイ的にご自身の体験を描くスタイルにするのでも、それはそれでかなり面白くなりそうな気がしています。
 
 
 
 

北条かやさんと「二十歳の原点」

北条かやさんの本は、ちょっと前に私の連れ合いが「キャバ嬢の社会学」という本を持ってきたので、それを読んだことがあります。
内容はすっかり忘れてしまったのでさほど印象が強くない本だったかもしれません。


その後、ネットでのいくつかの炎上事件があり、ネットでものすごく叩かれていたので、その詳細をちょっとだけ読んでみたのですが、あまり細かく読まずにあえて言うと、何でここまで叩かれるのかわからない(「こじらせ女子」の件とか、確かに北条さんがうっかりやってしまったみたいだけど、それほど重大な問題だろうか?)という感じでした。
一部の人にとっては非常に重要な問題だと思うので、その価値観について特に口をはさむつもりはありません。

「救急外来にかかったらビタミン剤と咳止めだけ処方されて7000円取られた」というのも、「医者にかかったら風邪が早く治るという迷信を信じてしまっている人」は世の中にたくさんいるわけで(実際に医師の診察が有用なのは風邪と他疾患の鑑別においてぐらいしかない)、そういう人たちに「ああ、救急にかかるとこんなにお金取られるのに、せいぜいビタミン剤ぐらいしかくれないんだな」と知ってもらうことは、不急の救急受診を減らす上でむしろいいのではないかと思いました。
しかし、ツイッター上のお医者さん達の反発は結構買ってしまったようです。
 

togetter.com

 

まあこれを見ると北条さんも結構強く、ヒステリックな言葉で言い返しているよねえ。




そして本人のブログも読んでみたわけですが。
 

ameblo.jp



本人は自虐のつもりでも、他人を傷つけている言葉って結構あるわけです。
ご本人は、「こんなBBA」「もうオバハン」と書いているのですが、だとしたら彼女よりずっと年上の私は何?とか、
「ブス」と言っても実は自分はかわいいと思っているんだよね…というセルフィ―とか、「自分はブス」の比較対象がモデルさん達だとかで、特に女性たちの気分を大いに害するものがあると思います。
(pianqueはこう書いていますが、あ、そ?っていう感じではあります。
私の連れ合いによれば、女性はみんな自分のことが一番かわいいと思っているそうで、目いっぱいおしゃれをした時の自意識過剰さというのは、私も含め多くの女性が経験していると思うからです。
とはいえ、メイクと整形で女子力を重武装しているような人にもし「pianqueさんはそのままでいいのよ」とか言われたら…pianqueもそこまで人間ができていませんから、もしかして殴っちゃうかもしれません。
これを受験に例えれば、ガリ勉して有名大学に受かった人に、あまり努力せず偏差値が高くない大学に入った私が「一度しかない青春を勉強だけで過ごすのは勿体ないよね」と言われるようなもんですから)

ただ、彼女はやっぱり、まだ若く、そして幸せではないのかもしれないなあと。
若い頃は多分、みんな一時的に不幸な時があって、それはやり過ごさないといけない時なのではないかと今になって思ったりします。
北条さんが、まったく何もしなくてもよさそうな腕と足をマニアックに脂肪吸引やったりしているのを見て、「今の自分が嫌い」「自分を変えたい」「愛されたい」という、色んなメッセージを察知してしまうわけです。
そういうメッセージを本人がある程度意図的にやっている節もブログの文章をよむ限りでは、ちょっとはある気がしています。
テレビに映る姿は彼女のキャラクターのせいなのか、整形とメイクでまるでお人形さんみたいになってしまっているからか、私にはすごく不自然に見えます。
本人も「内面の美は外見の修正では補えない」ことはよく知っているみたいなのです。
しかし、その言葉に反して、服やメイク、おしゃれのためのグッズ、整形…彼女のブログはそういう外見を飾るものにあふれています。
ご本人は仕事のためにやっていると書いているけど、私が仕事のためと称してヨガをやっているのと同じく、それは言い訳かなあと。

すごくありきたりな言い方なんですが、その外見に対するこだわりが傍からは「この人は本当は自分が嫌いなのではないか」と見えてしまう。
斎藤薫氏が昔、4時間かけてメイクする浜崎あゆみについて同じことを書いていました。

美を追求する旅には終わりがありません。
そしてほとんどの女性は、どんなに整形をしてもメイクをしても、ファン・ビンビンみたいな(←私の好み入ってますが)絶世の美女にはなれないということをよくわかっています。
そして追求したからどんどん美しくなるかというと、むしろピークの後は徐々に落ちていくことになります。
かくいう私も、5年ぐらい前までは「女性としてまだ見られるかも」と、内心ひそかにちょっとだけ思っていたのですが、最近はさすがに賞味期限切れの納豆のごとく(かつ、実際に食べられるかどうかもギリギリの地点)、私を見慣れている連れ合い以外の男性にもはや何の需要もないということを、ひしひしと噛みしめております。

(その後の浜崎あゆみの容姿が色々取沙汰されるところをみると、ちょっとかわいそうになってきます。)


このブログで書いたことがあるんですが、北条さんと同じく、私もごく地味な10代を送っていました。
服やおしゃれにお金を費やしたり、男に媚びるために自分の外見を磨き上げることにしか興味がない、そういう女になりたくないと思っていました。
しかし、おしゃれをするというのは、女性の大きな楽しみでもあります。
その楽しみに気づいてから、反動で20代の終わりぐらいに服をたくさん買ったり、ブランドもののバッグを買ったこともありました。
当時大阪に住んでいた私には阪急百貨店のショーウィンドウに飾られていたフェンディのバッグがとても眩しく見えました。
しかし買ってみてしばらくするとその輝きがなくなることが分かって、以後買うのはやめましたが。
後から考えてみると「服やおしゃれにお金を費やす女」という思い込みも私の中二病黒歴史というか、随分と雑なステレオタイプです。
私は自分が女子のメジャーなコミュニティに入れなかったことを「そういう女になりたくないから」にすり替えてしまっていました。
実際にはもっと深刻なディスコミュニケーションとか、タガメ女全盛期の社会の規範に私が馴染めなかったとか、家庭環境とか、そういう色々な問題が関係していました。
 

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おしゃれのもう一つの意味は、女子の仲間うちのマウンティングの武器の一つです。
最近では男に媚びるためというより、むしろこちらの意味合いが大きいかもしれません。
北条さんはそうした、学校や職場、ママ会などどこにでもありそうな、仮想女子グループの中の小さなカースト競争に乗ってしまったように見えます。
今の彼女ならそんな競争に乗らなくてもいいはずなのに。

マウンティングというのはどういうことかわからない方はちょっと前のドラマ、「ファーストクラス」や、最近ネットに出ている東京カレンダーなどの記事からお分かりいただけるかと思います。

はたから見ているとつまらない、そこから抜け出したいと思ってる女性も多いはずの小さな世界。
北条さんがなぜそんな狭い世界に自ら入っていくのか。文学的に想像してしまうなら、北条さんは昔どこかで、カースト競争の中で負けてしまったのかもしれません。
そしてそのカースト外にあることの疎外感を見に染みて感じているのかもしれないと。
そして、誰もが自分をより賢く、正しく見せようとするSNS界隈で「負けてしまった」ことで、リアル世界に生きている自分を女の競争のためにさらに武装する…というのはちょっと言い過ぎでしょうか。

誰からも好かれたいというのは、中二病というか、多分小二病ぐらいの話ではないかと思います。
年をとるにつれて、プライベートでも仕事でも、誰にでも好かれるわけではないのだということも、それでいいのだということもわかってきます。
そしてそれこそが自分自身なのだということも。
もし他人から愛されたいのであれば 何よりも自分自身を愛する必要があります。
そしてそのためには自分自身の醜い面もきちんと自分に見せる必要があるのです。
そのためには、誰かを真剣に愛する必要があるかもしれません。
その誰かは恋人でもいいし、家族でも子供でもいいかもしれません。
その人の前で醜く欲望の深い自分をさらけ出し、その自分を含めて、愛することができればいいのです。
いつまでも綺麗なままではいられません。
真の自分と向き合えない限り、自分のイメージの中の「理想の自分」という虚像を追い求めつづけることになります。
 
「そんなこと、言われなくてもわかってますよ」
分かってる?本当に?私にはそうはみえないんだけど。
 

世間は女性に若さと美しさを求めながらも、一定の年齢を過ぎてからは、大人としての自立も期待します。
30を過ぎた女性がなんかフワフワしていて、責任を負わなくていい生き方をしていることをよく思わない人は意外にたくさんいるかもしれません。
その人たちにとっては他人の人生なので別に干渉される理由もないのですが、そういう女性がメディアに出て発言するということは、そういう世間のアンチ票を拾うことでもあります。
 
そう、フワフワと生きている人は、日陰で生きているほうがずっと楽なんです。
 
なので、北条さんに本をもし送るとしたら、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」あたりでしょうか。
ベストセラーなのでお読みになっているかもしれないのですが、本を読むということと、その中身を掘り下げていくことは、次元の違う話だと思うからです。
 
こうして色々書きましたが、北条さんのブログは結構読ませていただきました。
ひと世代若い人達のファッション(すべてのアラサーを代表するわけでもないでしょうが…)がわかって、その点はなかなか楽しかったです。
 
ブログを読んでいて、ああこれは、昔「二十歳の原点」を読んだときの感覚と似ている、と思いました。
二十歳の原点」の著者は学生運動に参加していたものの、時代の流れに流されてしまい自己が崩壊して自ら命を絶ったのでした。
この著者が書いた詩は、未熟で粗削り、そういう詩なのですが、読む者に自分の若い頃を思い出させるストレートなメッセージがあります。
でも、北条さんの著書まではちょっと買わないかな…とは思いました。
 
ちょっと前にツイッターで北条さんを「アスペルガー」と書いた人がいて(アスペルガーアスペルガーと書いて何が悪いとかいうまとめの見出しを見ましたが、明らかに悪いと思います)、それは非常にまずいと思ったのでツイートを出しましたが、書いた人のTLを見てみると、何故か北条さんがらみのツイートが結構多い。
どういう感情を持つにせよ、気になってしまうということではないでしょうか。
もしかすると、ある種人を引き付ける力のある人かもしれないと思ったことと、
もしかすると、それは若い頃の椎名林檎Coccoの不幸さに惹かれてしまっていた普通の人たちの、残酷な好奇心と似ているかもしれないと思いました。
 
 

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんに思うこと

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんなど、有名人でヨガをやっている人が何とも残念なことになっているという事実は、ヨガをお勧めするものとしては大変心が痛むものです。

それぞれの方がどういうことになっているかはネットで調べて頂くとお分かりいただけるかと思いますが、本人たちがどう思っているかはともかく、とくに千葉さんは、傍目にはあまり幸せそうに見えません。

ヨガをやっている人が政治的主張を持ってはいけないということではないですし、状況により必ず主張すべきことは出てくると思いますが、彼女がメディアやネットで繰り広げている一連の言動は、やっぱり、幸せではない人のやることに見えます。

さまざまな事情があったのでしょうが、彼女が告白している不倫問題も、それは配偶者との絆を深められなかったということでもあるので、少なくともヨガ的な生き方ではないと思います。

挙句、不倫相手について本であれこれ暴露してしまっているようですが(読んでいないのでもし間違っていたらすみません)、その暴露が世間的にネタにはなっても、誰を幸せにするのだろう?というのが問題です。

 

彼女のやっているヨガは「インテグラルヨーガ」というものらしいですが、ヨガの持つ膨大な世界を「統合する、まとめる」などということは、少なくとも他の色々な活動をしながら片手間にできるものではありません。

ヨガを専業にしている人にすら非常に難しいことです。

人間は、どうしても自分の思い込みにとらわれてしまうものであるという自覚があれば、「まとめる」という行為自体が「いいとこ取り」、つまり、本質の理解からはほど遠くなるということに気づくはずです。

 

もともとヨガに興味を持つ人の中には、一定数、心に問題を抱えていたり、精神面で少し不安定だったりする人がいます。

女優さんなどがヨガにはまるのも、たんに美容的関心からだけではなく、不安定な仕事などでそうした問題が起こりやすいからと考えることもできます。

ヨガをやっている女性にはもともと綺麗な人も多いのですが、綺麗な人ほど色々精神的に問題を抱えやすいという例は枚挙にいとまがありません。

なので、精神的問題を抱える人達が(男女問わず)一つにはその解消手段としてヨガを選ぶわけですが、実際にはヨガのアーサナ(座法)を行うだけではそれらの問題は解決しません。

アーサナを行う際は、その前提となる「ヤマ」と「ニヤマ」という概念がとても大事で、これらのものは不可分です。

その二つができるようになることはとても難しく、ほとんどの人にはおそらくできませんが、少なくともそれに近づいていこうとする姿勢は持ち続ける必要があります。

 

片岡鶴太郎さんに関しては、やっぱりグル(導師)が悪かったのではないかと思うのですが、そうではなく自己流の解釈でやってしまったということかもしれません。

ただ、片岡さんの場合、ご自身は幸せに感じていらっしゃるかもしれないので、そうであれば他人がどうこう言う問題ではないかもしれません。

私が問題に感じているのは、一日数時間にもおよぶヨガや瞑想が本当に健康によいのか?ということだけです。

人間は健康のために生きているわけではありませんし、ヨガには、一つのアーサナを行えばそれで充分という考え方もあるのです。

 

おそらくですが、ヨガに本当に真面目に向き合っている人というのは、メディアで有名になる人ではないと思います。

そういう所にあまり興味を持たないでしょうし、それで心が満ち足りているからです。

 

それにしても、「ヨガをやっていて不幸になるのはヨガが悪いからではなく、特定の人が個人的に悪いからだ」的な話の展開というのは、イスラム教やキリスト教の人が、「イスラム教やキリスト教は悪くない、一部の人が過激で極端なだけだ」と言い訳するのと同じで、書いている本人すらある種の自己欺瞞を感じてしまっている点で、世間的にはアウトな話かと思います。

ヨガはマットの上のアーサナにとどまらず、実は生活のいたるところにある、ごくありふれたものなのだということに気づけば、そのありふれたものに注意を向けることで、人によっては別に「ヨガ」をあえて行わなくても幸せになれるかもしれません。

ただ人によってはヨガの修練を行った方がよりそうした意識を持ちやすくなるため、そういう人はヨガを行った方がいいと思います。

ヨガが、日常から離れた特別なものになった瞬間に、それは暴走する可能性を持つのかもしれません。

 

あるいは千葉さんは、ヨガをやっていること自体が苦しいのかもしれません。

ヤマもニヤマも、それに縛られると感じるのであれば、それは苦痛以外の何物でもありません。

もしそうであるならいっそヨガなどやめてしまったらいいのにと思ったりもします。

生活の中のヨガ、メディカルコレクトネスなどのお話3つ

#会報の記事向けに書いたもの(全部は掲載されないかもですが…)ですがブログにも載せておきます。


ここ3年ぐらい、ヨガを日常生活に取り入れるようになり、最近は短い時間であっても日課にするようになっています。
自分は体が硬くヨガには向いていないと思っていたのですが、続けるとそれなりですができることが増えてきます。
日常のヨガが「体のお掃除」のようになっており、例えば忙しかった日や長旅の後などにヨガを行うと次の日に疲れが残りません。
精神的にもすっきりするため、気持ちの整理にもなります。
(部屋の掃除は滞りがちですが、実は部屋の掃除をすることもヨガ的にいいこととされています)
体の色々な部位がそれぞれ特定の感情と結びついているというのがヨガの発想です。
痛みを感じる場所には滞りがあるということになるのですが、自分の体のどこに痛みを生じているかを観察する事で、現在の自分の状態について知る事ができます。
もちろん、ヨガをしていれば全く健康になれるかというとそうではなく、風邪を引いたり持病の片頭痛が出たりもするわけですが、それは何かの警告症状(睡眠不足や疲労などに対する)であり、出るべくして出るものであるということがわかります。
私が15年ぐらい学んでいる中国医学は、心と身体の関連について言及はするものの、臨床においてはむしろ身体に焦点が置かれることが多いと思います。
臓腑論などで心の問題を考えると、あくまでそれは五臓の不調和や体質的問題としてとらえられるため、治療としてはそのほうがわかりやすいのですが、患者さんが病院を出た後、つまり普段の生活の中での心のありようについてを問うことがやや難しくなります。
インドの古典医学と中国医学は似ている点も多いのですが、ベースになっている哲学(というか宗教)の違いで根本的に異なっていると思われるところもあります。
薬についてはより日本人に親しみのある漢方薬を用いるほうがよいでしょうが、理論的には相補的と思われる部分もあります。

日本では、ヨガはお嬢様たちの習い事と化しているのが現状ですが、本来は生活に必要なものとして位置づけられるものです。
ヨガの目的のひとつに、健康な肉体を維持して自分の大事な生命を守る(自分の体を粗末に扱わない)ということもあるのですが、本質的には精神面での安定、「ヨーガ・スートラ」における「心の動きの静止 (chitta vritti nirodha)」に向かい、すべての事柄の統一を目指すものです。
過去や未来の中に自分の心を置かず、現在に集中することでそれは成し遂げられるのですが、その過程には哲学者オイゲン・ヘリゲルの著作「弓と禅」の記述に近いものを感じます。
これは、禅那(dhyāna)の語源とヨガにおける八肢則の中の一つが同じであることと、禅と瞑想の関連性を考えると当然のことと言えます。
したがって、ヨガは宗教的色彩が強いものであり、その部分を抜いてダイエット目的をうたうヨガなどは、単なる器械体操の類にすぎません。
もしも、ヨガをやってみてすぐに飽きてしまったとしたら、そのような理解が出来なかったということでしょう。
ヨガについて言葉で説明できる部分はさほど多くなく、古典の記述なども非常にシンプルです。
多くのことは実践によって理解していくものであるため、ここで詳細は述べません。

宗教に対するアレルギーをお持ちの方も多いと思いますが、信仰と科学的態度が共存できるということは、多くの実例が示しています。
さらに、ヨガのいう宗教とは特定の宗教を指しません。
そのことを悪用するカルト教団もあるためそれには注意を払う必要はあります。
昨年は、相模原大量殺人や大口病院事件(目的はまだ定かではありませんが)など、優生思想が背景になっているのではないかという事件が発生しました。
このことを犯罪者個人の気質で説明しようとするのは問題の矮小化であり、こうした優生思想が多くの人に存在することは、事件後のネットの反応などで明らかです。
考えられる色々な原因があるのですが、筆者は宗教の不在もその一つと考えています。

ヨガを実践して認知症の周辺症状がかなりよくなった実例がありますが、疼痛の改善や精神面での効果など、高齢者にこそヨガをやってほしい理由がいくつかあります。
体の使い方が粗末であれば、いくら治療をしても痛みは良くなりようがありません。
ただし、高齢者は個々の体のゆがみが大きく、人数の多いヨガスタジオなどではかえって体を痛めてしまう可能性があり、実績のある指導者のもとで行う必要があります。
(筆者はinner journey yogaというつくば市の教室をお勧めしていることが多いです)
外来診療をやっていると、特に精神科でなくても、精神面で大きな問題を抱える人が来ることはよくあります。
そうした人の心はいつも過去や未来にあり、まず現在を生きていないということに気付きます。
そのことが自我と本来の心との解離を生じさせ、身体の不調の原因になっていると思う事もよくあります。
病院にかかることは、身体の問題に対する気付きを得ることになるかもしれません。
しかし、なぜそれが生じているのかに対する答えが表面的なものにとどまるかもしれません。
とくに高齢者がありのままに現在を生きる事は非常に難しく、その意味でもヨガは助けになると考えます。
また、ヨーガスートラなどの古典の読経も、精神面での効果が大きく、ヨガの座法がどうしても苦手な方にも是非おすすめしたいと考えています。


こうしてヨガの話を書きましたが、「医師」の私がかなり非科学的な話を書いているため、気分を害される方もいらっしゃるかもしれません。
しかしそうした科学者としての医師の「非科学性の一切の排除」という態度は、まだ科学的に証明されていないすべての事実を捨象することになるため、かえって事実から遠ざかる可能性があります。
例えば患者さんが何かのサプリメントを飲んだ、針灸や整骨に行ったという話を聞くと、すぐに見下す態度を取る医師がいますが、自分の治療に患者さんが満足していないと反省するべきところです。
(実際にある種のサプリメントや針灸は効果が報告されているものもあります。)
医学研究については、再現性の低さや研究デザインの設定による恣意性、ネガティブな結果を採用しないなどのバイアスが以前より問題になっていますが、数値のみでは完全に表現できない人体の反応を正確に記述することにはもともとかなりの困難があります。
それでも、臨床研究は勿論必要であり、我々は多くの研究の結果に基づいて医師として話をするべきです。
しかし実際の臨床において自分自身の処方が完全に科学的といえるかどうかを考えたときに、「非科学性の一切の排除」はかなり困難であるということが分かると思います。
ヨハネ福音書第8章3‐11節の内容は、非常に有名ですが、時代を超えて普遍的な教訓と言えます)
私は漢方の臨床をやっているため、EBMをぎっちり使うという態度が本質的に難しいのですが、それでも科学的に十分に実証されていないことが言いづらく息苦しい「メディカリーコレクトネス」をしばしば感じることがあります。
例えばある美容室の取り組みが非常に面白いと思っても、紹介するのに気が引けるということがあります。
科学的に正しいか?ということよりも、とくに美容などについては体験して効果を感じることに意義があると思いますが、美容業界も様々な意見の人がお互い意見の相違でいがみあっている状況であり、ここに医師が首をつっこむとややこしいことになるため、静観せざるをえないということもあります。
医療を否定する言説(反ワクチン理論やがん放置論など)はさすがに問題です。(たまに医師で反ワクチン派の人もいますが、その人物が往々にして例えば漢方家などであり、完全に我田引水の類だったりします)
しかし医療否定論者に多くの人が耳を傾けるのは、それが正しいからではなく「面白い」または「痛快である」からであり、それが支持されていること自体に昨年の米国で起きたトランプ現象に近いものを感じます。
「面白い」と「正しい」を両立させなければならないという、現代のリベラルが抱えているのと同質の問題を医療者も持っているわけです。
そのための一つとして、「非科学的」なものを全否定しないということも選択に入れるとよいのではないでしょうか。
医師の過度にメディカリーコレクトな態度は、ときに患者さんには不親切にうつるものであり、あくまでそれを貫くのであればそれについて十分かつ平易な説明をすることが必要です。


漢方などの代替医療を否定されている先生(私自身はその態度には一理あると考えていますが)の中には、西洋薬に対する信頼が非常に厚い人がいます。
しかし筆者は、一部の薬を除いて、薬の持つ効果は残念ながら今の所まだ高くない(かなり良くなってきてはいますが)と考えています。
漢方薬も同様です)
時折、薬が著効を示すことがありますが、むしろ例外的ケースであるにもかかわらず、多くの治療者はそうした成功体験にひきずられている可能性があります。
そのことが薬剤の検討の余地を潰していることが多いと予想されます。

例えば、脳梗塞後の治療で抗血小板剤と降圧剤が処方されている場合、それは再発予防のためであり必要なことです。
ただ、しばしばこれが予防的な投薬というより脳梗塞そのものに対して「治療的」であるかのように、医療者と患者双方で何となく錯覚されてしまっているということがあります。
しかしこれらの薬剤は発症してしまった脳梗塞をもとに戻すことはできません。
こうした事例は比較的多くあります。

新薬を使うのがより新しい治療を提供することになると考える方もいらっしゃると思いますが、発売後に有効性に疑問が提示されている新薬もあり、未知のリスクが付帯するというデメリットもあります。
例えば、私が学生の頃糖尿病の第一選択薬とされたSU剤ですが、最近はBG剤の有効性を示すデータが増えているなどもあり、長期的に考えるというのはこのぐらいのスパンになることもあります。

科学的な態度に基づく処方というのは、①目的のはっきりした、②医学的根拠に基づいた、③ポリファーマシー問題や薬剤相互作用などをクリアした、④服用のアドヒアランスが考慮された、そして、⑤長期的にみてその処方が妥当であるかを検討した、ものであるべきでしょう。
⑤が問題というのは、医学研究の多くで観察期間がさほど長くないことに起因します。

長期的な薬剤耐性の問題を考えたときに、風邪に最初から抗菌薬、鼻炎にレスピラトリーキノロンという処方はやはりあまり考えないのではないかと思います。
しかし、医療雑誌のアンケートではいまだに「風邪に抗菌薬を使う」という医師が多いことが分かります。
風邪に抗菌薬を使う事は、二次感染のリスクを考えると医学的に間違いではありませんが、降圧剤のように単剤でも二剤でも降圧目標が達成されればある程度OKというのとは違う問題を含んでいます。
風邪の二次感染のリスクは確かにありますが、比較的少数のケースについては個別に対応すべきです。
風邪に抗菌薬を処方する医師が多いため、世間的にも重い風邪には抗菌薬だと思われてしまっていることは、医療と社会との関係を考える際に問題となる点のひとつと考えます。

インフルエンザに対する一律的な抗インフルエンザ薬処方は、薬剤耐性株の発生する可能性という問題が以前から指摘されています。
抗菌薬との作用機序の違いなどから耐性株の出現は限定的という予測もあるようですが、耐性株の報告が複数あるため(タミフルの使用のしすぎに由来するものかどうかは資料から読み取ることはできませんでしたが、使用頻度のもっとも高いタミフルでのみ出現しています)、考慮すべき問題と考えます。

投与するかしないかを医師の裁量で決める現行の制度では社会的理由による投薬が多くなってしまうため、行政レベルでの規制の必要性を感じています。
そもそも、抗インフルエンザ薬を処方せずとも治るものに対し、早く学校に行きたいからという理由で処方するというのが医療的に見て正しいことなのかを、薬剤耐性問題とも分けて考える必要があります。
(予防接種は普及させるべきものですが、高価でありしかも打っていてもインフルエンザにかかる場合もあることで、すべての人に納得して打ってもらうのは困難かも知れません。)
日本だけで全世界の抗インフルエンザ薬の7~8割を使っているという記事がありますが、事実であればやはり普通の状況ではありません。
しかし日本感染症学会のガイドラインを見ても、抗インフルエンザ薬を「使わない」という選択肢がないため、これに沿った場合は処方しないわけにいきません。

長期的な思考で処方をするというのは現状では非常に難しいと思います。
しかし、予防医学が普及したあたりから、短期的な思考(その場の治療でうまくいけばいいという考え)でものを考えることは、態度として正しくなくなりつつあります。
医学知識としては、つねに医学雑誌や論文まとめサイト、新しい本などを見ていくしかないのが現状ですが、抗菌薬やベンゾジアゼピン系薬などのように、「普通に考えて良くないのではないか」というレベルで判断できるものもあります。その「普通の感覚」を時々意識的に取り戻すことが大事なのではないでしょうか。

そして、科学的な態度とは直接関係ありませんが、無駄な投薬や検査をできるだけなくしていくという経済感覚も、とくにこれから必要になると思います。
そのことを一日一日、その場で考えなおす必要があると考えます。

記事をいくつか削除しました

以前はとてもいいと思って通っていた、あるいは買っていたお店も、段々に変わっていくもので、今それらのお店を見てみるとちょっとどうかなと思う所があって、いくつかの記事を削除しました。

ブログに残っている記事中で紹介しているお店は今でもお気に入りのお店です。

削除した理由はそれぞれ、いくつかあるのですが、ひとまずここでは書かないことにします。

医療費の抑制と「不安」にまつわるさまざま

医療費の問題を考えるときに、「医療は贅沢である」という基本を思い出すことと、とりわけ女性に強い不安や恐怖に対処することで、不要の投薬や検査、処置などを減らすということを考えたりします。
女性本来の気質的なものなのか、社会的に与えられている役割のせいか、自分の体の変化や身の回りの人の変化に不安になりやすい人が多いようです。
そして、そういう不安の強い女性が育てた子供は、小さい頃からちょっとした症状で病院に行くことになり、男女問わず不安の強い子になる傾向があるかもしれません。
いつまでも若く美しくありたいのが女性ですが、そういう美容に対する関心も、実は自己の変化に対する恐れから来ているように見えることもあります。
そして、加齢による色々な体の変化も、病気のせいであり、したがって薬などで治るものだと思ってしまうかもしれません。
実際にそうやって医者を渡り歩く高齢者を(これは男女問わずですが)時々見ます。
また、例えば90歳をずいぶん超えたおばあちゃんが食欲がなくなったということで心配して受診される家族の方がいらっしゃいますが、その年齢で食欲旺盛というほうがむしろ不思議です。
高齢の方はあちこちが痛くなり、色々な不調が出るので、何とかしてやりたいという気持ちはわかるのですが、病院に行く以外の方法でそれを解決する方法を考える時期に来ているのではないかと思います。
 
変化することの何が怖いかというと、突き詰めると死により近づいていくから、なのですが、おそらくその恐怖は高齢になるほど強くなります。
 
知識で克服できるものではないかもしれません。
 
不安や恐怖は自然な感情ですが、そうした感情をいくら抱いても状況は変わりません。
医師に何でもないと言われて安心できればそれでいいのですが、時折何でもないと言われたことに逆に不安感を抱いてしまうことがあり、そうなるとその不安や恐怖は、自分を苦しめるもの以外の何物にもならなくなります。
 
不安や恐怖は生命の維持に必要な感覚であり、これをなくすことはできないのですが、体の調子が悪いと不安感が強くなり、はっきりしない医師の答えなどでさらに不安が強くなったりしているかもしれません。

中にはあらぬ心配をしてしまい、自分の中のありえない説(脳の血管が切れた、血管がつまった系の説が多いです)に従って、医師に検査をするように要求する人がいます。
 
ごくたまにそれが正しいことがありますが、あくまでレアケースです。
 
「デイサービスの看護師さんに検査をしてもらうように言われた」「家族に検査をしてもらってくるように言われた」と来院する人も多いですが、検査をする必要はないことのほうが多いです。

とくに看護師さんの話は、なぜそう言ったのか理解できないことも多く、気軽に検査など言わず受診をおすすめすればそれでよいと思うのですが、検査大好きの看護師さんもいるのでしょう。

異常がないことを説明しても検査の結果が正常であることまで見ないと納得できない。
 
目に見えるもの、数値化できるものしか信じないというのは、実は本能が鈍るという点でむしろより悪い方向に行っているのではないかと思いますが、多くの医師も目に見えるものしか信じていないため、これは医師の態度を反映しているともいえます。
 
患者さんを納得させるために検査をするという状況は極めてよくあり、正直な話自分もやっぱりしていますが、医者自身これが無駄だということをよく自覚しているはずです。(できるだけそうしないようにはしていますが全てやらないのはほぼ不可能です)医師のサイトなんかを見てみるとそういう本音がたくさん書いてありますが、あまり表に出ません。
 
私の知人でかなり知的レベルの高い人も、「めまいで病院に行ったら頭のMRIも撮ってくれなかった」とぼやいていましたが、医師が必要がないと判断したから検査しなかったことを「冷たい」と色付けしてしまうようです、
 
検査をした方が病院の利益にもなり、説明の手間も省け、より確実な情報を提供するという意味で誠実だと考える医師もたくさんいるでしょう。
前にも書きましたが、大学病院など研究機関の場合、研究のための検査を保険でやっていることもよくあります。
検査のやりすぎという点ではインフルエンザの迅速検査などが典型例ですが、日本人のインフルエンザに対する恐怖心はちょっと異常なレベルです。この点はアメリカを見習ったほうがいいかもしれません。
 
確かに、検査をより行う方がより確かで誠実ではありますが、問題はそれが将来的に現在の保険診療システムを維持するのが難しくなるぐらい医療費を食わないかということです。
 
開業医が医療機器を買ってしまうとどうしてもその設備を使うため検査が多くなりやすいので、どうせ買うなら超音波など汎用性の高い機械がよいのかもしれません。

院内にMRIを備え、ただの頭痛や「物忘れが心配なので頭を検査してほしい」人全員にMRIをやっている開業医の先生が実在したりします。
 
開業医はよろづ相談屋として、病気でも病気でないものでも人生相談も(あまりお役に立てないかもしれませんが)なんでも相談にのり、画像検査や専門的な治療などは地域の病院にお願いしてしまう方がよいのではないかと考えています。
 
開業医は経営の問題があり、どうしても点数稼ぎになる傾向がありますが、勤務医は逆に経済感覚がなさ過ぎて色々無駄遣いをやっています。
 
医師の良識のみでこれを制限していくのは難しく、やはり何らかの制度改革は必要なのかもしれません。
 
先日ある眼科の先生も書かれていましたが、たかだか100年の歴史の現代医学では、 病気とはみなされない、病名がつけられないということは非常にしばしばおこります。 漢方はもう少し歴史が長いので色々な症状に対し弁証することができますが、現代医学の文脈と合わないところが悩みの種です。

前述しましたが、病名がつかないと納得できないという人はたくさんいます。

そのため、例えば不定愁訴に「自律神経失調症」とか「プチ更年期」などの適当な病名をつけて患者さんを納得させようとする医師もいますが、誠意ある対応ではないと私は考えています。

医師の態度というのは大事です。患者さんを脅かさない、患者さんと適度な距離を保つ、分からないことはわからないと正直に言うなどです。
家父長的態度の医師のあり方は変わらないといけません。ドクターハラスメントという言葉が最近出てきましたが、医師が反省すべき点は多いと思います。

先日もある開業医に「コレステロールの薬を飲まないと死ぬ」と言われた患者さんがいらっしゃいましたが、この言葉にも相当脅しが入っています。
 
ある病院の先生も、「更年期以降はあなたはお母さんと同じ病気になりますよ」と、かなりの暴論を受診者全員に説明するというようなことをしています。

 現代医学は高血圧や高脂血症の弊害をあまりに強調しすぎてきました。
 生活習慣病という言葉がありますが、 一般的にイメージされる「病気」と生活習慣病は違うということをもう少し伝えていく必要があると思います。
血圧が急に高くなると死ぬと思っている人は未だにある程度いるようですが、それはかなり特殊な状況に限られます。

現在行われている特定健診にも問題があるのは、異常値の設定がかなり低く、検査をすると大抵の人が異常になってしまうということです。

この数値の異常を病気と捉えてしまい、不安になる人が非常に多いです。
 
医療は「患者さんに不安を植え付ける」ということを、今後できるだけ減らしていくべきでしょう。
 
特に高齢者にはできるだけ希望を与えるようにしなければいけません。
 
高齢者はしばしば、難聴などでコミュニケーションが難しく、そのことが不安を増大させていることがあるため、より便利なコミュニケーションツールの開発はこれからの時代必須です。(すでに開発されているものもあったと思います)
 
 
より根本的で実存的ともいえる、生きる上での不安や恐怖の救済という意味で、私はやはり宗教的な存在が必要と考えていますが、宗教がタブーになっている日本ではこれは難しいかもしれません。
 
 
高齢の患者さんの中には、「もうお迎えが来るのを待ってるんだけど」と言いながら病院に来ている人がいますが、名目上は高血圧の薬をもらいに来るということであっても、メディカルチェック的に受診をするのは悪いことではありません。
 
しかし、突然に起こる脳卒中や大動脈乖離、心筋梗塞などを通常の受診が予見できるかといえばそれは難しく、より慢性に進行する病気のチェックに限定されると思います。
 
 
 経済的な問題もさることながら、診療体制の維持も保険診療の維持のためには非常に大事です。
 
特に地域の躯幹病院の診療体制を維持するために、色々な課題がありますが、ある程度の受診制限や不急の時間外受診、救急車出動を減らすことも一つの大きな課題です。

夜間の救急外来にかかってくる電話でしばしばあるのは、「2,3日前から調子が悪かったけど痛みがひどくなってきて心配になった」です。

「心配になった時点」が受診時間であり、本来の緊急性と関係ありません。
ここでも「不安」の問題が出てきます。
自分の抱いている不安が「正しい不安」なのか、単なる杞憂なのか。
それを判断するのは相当難しいのですが(病気によっては夜中であろうと、一刻も早く来てもらった方が医療スタッフもかえって助かる事態もあるため)、あまり考えずにすぐに受診するのと、ちょっと立ち止まって考えてから受診するかどうか決めるのでは、自分の中にある本能的な感覚を使うという点でやはり違うと考えます。

以前ある医局秘書の方が「風邪で夜中の3時に救急外来を受診したら怒られた」と言い、同僚に「当たり前じゃボケ」と言われておりましたが、医局秘書のように医師の仕事をある程度把握している人でも、夜間救急が病院の人的リソースを消耗するということに案外無頓着だったりします。
「仕事があるので昼間これずに時間外に来た」という人もいますが、時間外診療でできることはかなり限られるため、また来るはめになります。
調子が悪ければ時間内に職場を休んで受診する勇気や、それを支えてくれる会社の体制も必要かもしれません。
 
もう一つ、ここで書いておきたいことは、「医師間の遠慮をどうやってなくすかという問題」です。
投薬を減らしたいという時に、他科との調整がどうしても必要になります。
ある特定の科にかかると、たくさん薬を処方され、他の科にかかるとさらに薬が増え…という問題ですが、色々な問題解決法が検討されているものの、結局は医師の自覚による部分が大きいのではないかと考えています。
多剤投与は臓器別に細分化された医療やEBM医学が本質的に持ちうるマイナスの側面と言えます。
医師個人の意識の問題としては、ひとまず漫然と薬を投与しないこと、他科の処方を必ずチェックすることなどがあります。
将来的には、ある患者さんがどの薬を飲むともっとも健康に過ごせるか、という所までAI(人工知能)にやってほしい所ですが、現状では医師同士でもう少し率直に意見を交わし合うということに期待します。これはすごく難しいことなのですが、なぜ難しいのかをよく考える必要があります。
お医者さんはなかなか頭が固い人が多いため、患者さん側はそのことを理解しておくとよいかもしれません。
そして、ずっと飲み続けないといけない薬は、「結果的に何も治していない」ということだということを双方が自覚することで、話は大分すっきりします。
そのアルツハイマーの薬に本当に飲む理由はあるでしょうか?
一つ一つ、面倒でも考えていく必要があります。