pianque's blog "blackstar"

北関東の某市で暮らすpianqueが日々感じたことをつづります。表題とかけ離れた記事が増えてきたのでタイトルを変えました。

病院にかかる前の心の制御について

外来診療ではたくさんの人と話をするのですが、こちらが説明をする際に、できるだけわかりやすく説明するように心がけつつも、基本的には「一度の説明では理解されない」と思って説明しています。

実際、一度の説明で理解されることはほぼなく、たまに一度の説明でほぼすべて理解してしまうツワモノの出現にこちらが驚いたりしていますが、そういう人はたいがい同業者とかいわゆる「プロ患者」的な方々とか、まあそういうことかなと思っています。

理解していないことについて聞き返してくれる場合はまだよくて、理解していないことをそのままに帰ってしまう人が結構います。次回来た時に言われたことが全くできていないなどはザラなので、気長に説明することにしています。

ところで、私は自分のクリニックでは漢方外来をやっていますが、症状の説明が普通の内科の外来よりもだいぶ難しくなります。

気虚」とか「気逆」などの気の異常に関するワードを、「怪しくならないように」説明するのにはどうすればよいか?今でも結構腐心しています。

さらに専門性としては中医学のため、「肝火上炎」などの四字熟語的ワードになると、短時間での説明はほぼ不可能です。この辺、中国人の医師と患者なら字面を見ながら、もう少し話が合いそうですが、中国語と日本語の漢字の語感ってやっぱり違うんですよね。

なのでもっと大まかに、日本漢方の概念を使って話をしていることが結構あります。

こうした漢方外来での説明の難しさはさておき、ここでは普通の内科の外来にかかるさいの、医師及び患者さんの対話について、話をしてみようと思います。

 

前述しましたように、患者さんは医師からの説明を結構スルーしていると思っています。

それは、「話が難しいから」というのも勿論あると思うのですが、それ以上に話を聞く際の心の態度が反映されているがと感じています。

「すべて医師にお任せするので話をいちいち聞いてもしょうがない」

「不安で、どこも悪くないという医師の言葉が信用できない」

「先生が怖くて質問できない」

「面倒なので話の要点だけ聞きたい」

などという感情の部分が強いと、どうしてもまっすぐに話を聞けないかもしれません。

メモをとるのは有効でお勧めしたいです。

しかし何よりも、(辛いから病院に来ているわけで難しいのですが)「言われていることをそのままに聞いて、聞いたことについて自分で感情的な色付けをしない」ということが大事だと思います。

例えば、「あの先生の言い方が不親切だった」「あのスタッフの態度が悪かった」ということは、往々にしてある(同業者を代表して、すみません…)と思いますが、そのことで頭がいっぱいになってしまうと、その先生が言っている大事なことを聞き落とす場合があります。

これは医師側の問題が非常に大きいので、そちらが変わっていかないといけないのですが、現状では医師も人間とあきらめて、患者さんがちょっと医師よりも大人になるぐらいの余裕があった方が精神的な疲労が少ないと思います。(重ね重ねすみません…)

または、診察室で自分の発した言葉についてあれこれ考えてしまう、医師の言葉尻をとらえて自分なりに解釈してしまう、検査データの細かい数字が気になってしまい、医師の「大丈夫」いう言葉が入らない、処置などに伴う羞恥心で頭がいっぱいになってしまう、などもこれに当たると思います。

このようにして話を聞かない結果、自分の頭で医師の言葉や検査結果を解釈したり、自分の症状について頭の中であれこれ考える(単なる頭痛に対して「血管が切れたのではないか?など)、ネットで自分の症状を調べて怖い病気を見つけてしまうなど、病は気から状態になっている人がいます。

(ネット情報は上手に探すと正しい情報が得られますが、単語のみの検索で出てくるものは往々にして誇張的であり、比較的しっかりしたソース元ですらそういうことがあります)

病気は、一般的に思われているほどクリアに説明できるものはむしろ少なく、常に曖昧さの中にあります。

その曖昧さを自分の頭で解決しようとして解釈を加えてしまう、その焦りが「検査に答えを求める」傾向や(これは医師もですが…)、「その検査の間違った解釈」につながり、下手をすると偽りの診断に納得してしまい、自分の身体に対する正しい理解の機会を逃してしまう、そんなことにもなりかねません。

なので、病院にかかる時は、自分の苦痛や不安をよく把握しつつも、「言われた通りに話を聞く」ようにすると、もっと話が分かりやすくなると思います。

一言一言、そのままに聞くのはなかなか難しいことです。

そのためには日ごろから、ある種のトレーニングをするとよいかもしれません。

私自身は、ある程度以上の強度を持った身体の鍛錬が、このトレーニングに有効ではないかと考えています。鍛錬が正しければ、自分の身体に対する信頼感もできますし、身体へのコントロールがある程度きくようになると、偶発的に起きた苦痛や不調に対するとらえ方が変わってくるかもしれません。(そのためにはそもそも健全な心が必要なので、この部分はもしかしてトートロジーになっているかもしれません)

この場合の身体のコントロールというのは、当然のことながら、タバコやお酒、安定剤/睡眠薬やカフェインを使ったムードのコントロールや、食事制限による体重のコントロール、下剤を使った排便のコントロール、感情の抑圧などとは対極の所にあります。

患者さんは話を聞くだけでなく、診察室で自分の症状を述べる、質問をするなど、自分からも話をしなければなりません。

医師の中には患者さんに研修医レベルのプレゼンを期待する人もいるため(苦笑)すごく緊張するはずです。

完璧に話をする必要はまったくないと思いますが、一つだけ、時系列をはっきりさせることはとても大事です。できればいつから症状が起きてどう経過したのか、待合室で待っている間、頭の中で整理しておくとよいかもしれません。

あと、話が迂遠すぎて症状からほど遠い所から始まってしまうと、なかなか本題に入りづらいため、「自分」という要素をできるだけ薄めた説明をするとよいかもしれません。そうすると近所のお友達に言われた所から話が始まらなくてすむと思います。

また、「自分の体ってこういう体」「自分はこういう体質」という自己把握は誰しもあると思いますが、人間の体はある程度は誰でも同じですし、とくに西洋医学はその共通性を前提にしていますから、「以前に××の病気にかかった時に同じことが起きたから今回も同じ病気」ではなく、過去に起きたことは一応話つつも、今回の事は今回の事として、話をしてみてください。

質問については、「医師に聞いたほうがいいと言われている」薬の飲み合わせや服用時間についての質問はとても多いです。自己判断で大事な薬を「風邪を引いたから」とやめてしまう人もいるので、聞いていただけるのはありがたいと思います。

一方で、素朴な疑問として内側から起こってくるような質問は、比較的少ないかもしれません。医師の話など冷静に聞くとツッコミどころ満載だったりするので、'that is a good question'と何故か英語で言いたくなるような質問をお待ちしています。

「このコレステロールの薬は飲んだほうがいいんでしょうか?」

例えばこれはいい質問です。ただし答えはそんなにクリアカットではないんですが…。

 

医師の側の問題は、前回の同テーマ記事と同じような話になるのですがとても大きく、知識量が違うというだけで患者さんを見下しているような態度をとる人が多いのは残念なことです。(自分ももしかしてどこかでやっているかもしれません…)

あと、患者さんが教科書的な症状を訴えないと不機嫌になるとか(笑)人間の体は共通とはいえ、個人の体験としてはそれぞれ違ったものになり、そこから診断につながる話を引き出すということは、医師の教育としてもっとあってもいいかもしれません。

また、開業医に多い印象ですが、説明をあまりにも簡単にしすぎてトンデモ系になっている人がいます。(コレステロールの薬を飲まないと死ぬなど)時間がなかったり、理解が難しい人ならいっそ中途半端な説明はしないか、そうでなければ変に省略しすぎず説明した方がいいと思います。

医師の心の持ち方についてはこの本に詳述されています。まあ本の中の「ショートカット」だけではダメだという話もあるんですが。

www.amazon.co.jp

医師にかかるということは、自分の健康を人に預けるということでもあるため、それなりに真剣勝負です。そのためには、かかる人、診察をする人の両方に、感情を制御して人の話をそのままに聞く心の態度が必要と感じています。

 

 

羽生結弦選手の「負け」を感じた話

このブログも開設してはや3年となりました。特に大きなテーマがあるわけでもなく、思いついたことを書いているだけなので更新がすごく遅いのですが、何とかボチボチ続けています。

ところで、このところフィギュアスケートの過去動画を結構見ています。

平昌五輪、世界選手権と大きなイベントが続き、羽生結弦選手と宇野昌磨選手が日本男子初のワンツーフィニッシュということで、マスコミも盛り上がっていると思います。

羽生選手は怪我で療養中ですが、記者会見、地元での凱旋パレード、高島屋での展示会などのイベントが続きます。

そして、今回改めてオリンピック時の羽生選手の演技を見返してみたのですが、もう一度見て個人的に思ったのは、

「オリンピックで金メダルを獲るような演技に見えない」

です。

私は特に羽生選手のアンチではないと思います。過去のいくつかの大会の演技については、女性らしさと男性の力強さを併せ持った、素晴らしい演技だと思いました。

ただ今回はスピードもパワーもなく、転倒こそなかったものの見ていて心を打たれることはありませんでした。

「怪我をして直前まで練習ができなかったのに逆境を乗り越えて金メダルをつかんだ」というのは1つのストーリーですが、演技自体はそれと分けて評価されるべきです。

(ところで、羽生選手の怪我を「ただの捻挫であんなに休んでいる」と批判している人がいますが、競技内容を考えると骨折=重症、靭帯損傷=軽症とは一概に言えませんし、痛みの感覚をどう捉えるか、どのぐらいで治癒するかなどは個人差が大きいので、やはり怪我は調整に大きくマイナスになったとは思います)

羽生選手は「ひたすら点をとることしか考えていなかった」ということなので、キム・ヨナ選手の時と同様、オーサーコーチと徹底的に点を取る作戦を取ったということなのかもしれませんが、同コーチの門下生であるハビエル・フェルナンデス選手のフリー演技には完成度の高さを感じたので、素人判断とはわかりつつ、やっぱり採点の不可解さを感じてしまうのです。

羽生選手の金メダルが決まった時、SNS上はお祭り状態でしたが、少数だけ私と同様の感想もあったので、この辺は健全でいいと思いました。自国の選手であっても判断は公正にした方がいいと思います。

しかしその後、羽生選手をdisる記事を書いた映画監督などの炎上ぶりを見ていると、羽生選手についての冷静な議論がネット上ではすごく難しいと思っていて(多分フィギュア界の人でも彼に少しでも批判的な記事を書くのは難しいのでは)、私もこの目立たないブログでひそかに書いたりしているわけです。

まあ、そんな方はいらっしゃらないと思いますが、このブログをつぶさに読むと私本人は特定できると思うので、そのぐらいの匿名性で書いています。

 

フィギュアスケートは審美的な競技なので、どうしても、演技だけではなく選手の外見、性格、行動などの「好き嫌い」が見ている人によって違ってしまうのだと思います。

私は、できれば選手は演技のみで評価したいため、羽生選手の自己愛の強そうな言動も、演技がよければ別にかまわないと思っていますが、そう思えない人が彼の外見や言動について批判的な意見を述べることは全く自由だと思います。

羽生選手にも熱烈なファンもいれば、アンチの人達もいるので、ファンには端正な外見で優等生的な彼の言動がとても美しく見えると思いますし、羽生選手の一挙手一投足が気に入らないというアンチの人もいるでしょう。

とくに女性はそうなのかもしれませんが、一旦「嫌い」のカテゴリーに入ってしまうと、演技の悪いところばかりが目立つようになるため、実際の出来栄えより悪く見えてしまうかもしれません。フィギュアスケートのサイトには自分の嫌いな選手をdisるコメントが多いですが、何でここまで?というものがかなり多いです。

また、男女問わず、韓国に対する悪感情や国民的人気の浅田真央選手のライバルだったという理由で、キム・ヨナ選手の日本のネットでの叩かれ方は、(バンクーバーオリンピックの採点が適切だったのかは別にしても)それはそれで公平さに欠けていると思います。キム・ヨナの五輪採点疑惑があれだけ出ていて、今回の羽生選手に対しては…?という感じです。

私は、全盛期の安藤美姫選手やキム・ヨナ選手のジャンプは今見ても美しいと思うのですが、まあヤフーコメントでは書けないでしょう(書いたことないですが)。

さて、ここまで書いて何が言いたいか、ということなのですが、

フィギュアスケートは審美的な競技であり、観ている人達も人間である以上好き嫌いがあるので、自分の主観性はどうしても排除できない。しかし自分自身にその主観性が見えず、他人の意見が非常に偏って見え、「自分が」納得のいかない採点にも不公平感を感じてしまう。(今回の私を含めて)

・採点にはどうしても不透明な部分が残ってしまうが、AIに審美的評価をさせるのは現状ではまだ難しく、当分の間複数の人間がジャッジとなって評価をすることになる。専門家と素人の審美的評価は異なるかもしれないため、採点に関する議論はおそらくなくならない。

・ある選手の採点に納得がいかない場合は、その選手をdisるのではなく、採点システム全体の問題として議論した方が建設的だと思う。(キム・ヨナや羽生選手については陰謀論的な主張もあるみたいですが、その真偽は全く分からないので…)

・ということで、自分の嫌いな選手の演技のみならず、外見や言動について書くことも自由だとは思うが(節度は守って欲しいとは思うけど)、ライバルのファン同士で中傷合戦をするのはかなり不毛で、フィギュアスケートに関心のない人達を遠ざける=フィギュア人気を引き下げることになりかねないと思うので、やめた方がいいと思っている。自分と意見が合わないコメントは相手にしないのが一番。

ということです。

 

話を羽生選手に戻しますが、前回のソチオリンピックの時に演技でミスのあった彼は、金メダルは獲ったもののあまり納得していない様子でした。

前回も今回も、相手のミスがなかったら金メダルは獲れなかったと思うので、強靭な運の強さを感じます。それはそれで1つの才能かもしれません。

しかし今回、羽生選手は、自分の演技にある程度納得してしまっているんですね。

そこが見ていて残念だと思いました。

オリンピックという大舞台で大変なことではあったとはいえ、今回の演技を、例えば彼が尊敬するエフゲニー・プルシェンコ選手の全盛期の演技と比べて、時期やスタイルが全く違うにしても、どちらが優れているのかは素人が見て直感的に分かるレベルではないのだろうか?と。

そうした一層の高みを競技人生に求めつづけられるかは、本人の審美眼がどれだけ曇らないかによると思いますが、もう自分の目標を達成してしまったのと、あまりきちんと批判してくれる人が周囲にいないと、難しいかもしれないなと思います。

羽生選手が、金メダルという「肩書き」に日本がめっぽう弱く、一部のファン以外には選手としてのキャリア全体がメダルの色で評価されてしまうということを熟知していて、割り切った上で今回は点取りに走り、残りの競技人生で本当に素晴らしい、人を感動させる演技をしてくれるということであれば、それは賢い判断なのかもしれませんが。

現役なのに高島屋羽生結弦展が開かれたり、本人がスケーティングをしないイベントを開くなど、すでにカリスマ的な人気を誇り、ある種の権威にすらなりつつあることで、羽生選手は選手として「負けてしまったかもしれない」、と感じた話でした。

ヴェーダンタ(またはヨーガ)の勉強とベジタリアン

100qforv.blogspot.jp

ヴェーダンタの勉強していると、ベジタリアンについての話題が必ず出てきます。ヴェーダンタを勉強する人は原則、菜食を実践することが推奨されています。

ヴェーダンタを学ぶことのできる日本の勉強会などでも、キャンプなどで提供される食事は全てベジタリアンとなっています。

牛乳はOKですが、卵はNGなので、ラクト・ベジタリアン(肉、魚、卵は摂らないが牛乳は摂る)の食事です。

アーサナが主体の、いわゆるヨーガのクラスは、指導者が必ずしもベジタリアンではないことも多いですが、原則的にはやはり菜食が推奨されています。

それは、肉食を避けることがアヒムサー(अहिंसा、非暴力)の実践であるからです。

現代に生きる人間は、ただ生きているだけで、肉を食べる以外にもたくさんの生命を毎日犠牲にし続けていますが、自分の意志でコントロールできる殺生だけでもなるべく減らそうというのがその意図です。

ヴェーダンタといわゆるヨーガを混同しているとして批判を浴びそうなのですが、ハタヨーガを含む4つのヨーガは一応ヴェーダンタに立脚点があるということで、ここではまとめて話すことにします。)

さて、私は仕事上さまざまな代替療法や食事療法について触れる機会があるのですが、厳格なベジタリアンヴィーガン:乳製品、卵と肉と魚を摂らない食事療法)の人を見ていると、どうも全体に黒っぽかったり、あるいは顔色が悪かったり、何となく健康に見えないということが度々あります。

また、実際に健康を害してしまった人たちも見てきました。

マクロビオティックと薬膳を研究していた専門家が、60歳ぐらいで癌でお亡くなりになったということもありました。

インドのベジタリアンは、牛乳は摂る、または人によっては卵も摂る、など、いわゆるラクト・(&オボ)ベジタリアンなので、マクロビオティックヴィーガンほど厳格ではありません。

冒頭のブログは、「理論的に説明します」という触れ込みになってはいるものの、内容のロジックが基本ヴェーダンタなので、多くの人がもっとも関心のある健康への影響については、ほぼ「健康には問題ありません。体調に問題が出る人は心の持ち方が悪いのでしょう」で終わってしまっています。

この部分を少し拡張して取り上げたいと思います。

onlinelibrary.wiley.com

菜食主義者の栄養について、総説は上記のものがわかりやすいです。長いですが、google翻訳でもある程度の意味はとれると思います。

 

個々の論文やレビューについては以下のようなものが見つかりました。

 

www.mdpi.com

これはレビューなのですが、アドベンチストというキリスト教の一派(菜食主義を推奨)の菜食主義者は、心血管系疾患や糖尿病、肥満、癌などの発生率が低いとまとめています。ただしもともと健康的な生活を送っている集団なので食事以外の原因もあるかもしれないともあります。

https://academic.oup.com/ajcn/article/89/5/1627S/4596952

こちらも、がんや糖尿病については肯定的な書き方ですが、アジア人女性の骨粗しょう症は菜食主義で顕著に上がるとの報告も出し、菜食主義者は不足しやすい栄養をサプリや栄養強化食品などでとる必要があると書いています。この辺が…なんだか不自然だなあ、と思われる方が出てくる所だと思います。

同様に、幼少期にマクロビオティックを行うと骨粗鬆症のリスクが増えたり、成長が悪くなるという要旨の論文もあり(リンクは全部出すと記事として長くなりすぎるので省略。基本的に今回の引用文献はgoogle scholarで検索しているので探すと見つかります)、適度な乳製品の摂取で後者は予防できるとのことですが、緯度が高く日照量の少ない地域や、日本のように乳糖不耐症が多く、そもそも平均のカルシウム含有量が少ない地域などでは、サプリメントでビタミンDやカルシウムを摂る必要があるかもしれません。

Soy Foods and Supplementation: A Review of Commonly Perceived Health Benefits and Risks - ProQuest

日本のベジタリアンには大豆食品が頻繁に登場しますが、その大豆の健康面への影響について。大豆は心血管系疾患、骨粗鬆症乳がん、更年期症状、前立腺がんなどに対し摂取するのがよいとされる反面、逆に乳がんのリスクになることや、(フィチン酸塩、酵素阻害物質、ゴイトロゲンなどの)反栄養物質、大豆を加工するさいの添加物になどついての話が出てきます。

フィチン酸については健康への良い面と悪い面、どちらも指摘されています。(これもgoogle scholarなどで検索すると出てきます)ゴイトロゲンも然りなのですが、ゴイトロゲン(ゲニステイン)は甲状腺機能に影響するため、摂りすぎることでの甲状腺機能への影響を考慮しなければいけません。大豆を発酵させることでこれらの反栄養物質を低減できるとされています。かつ、大豆を摂取する際には、他の野菜などにもゴイトロゲンが含まれているものがあり、それも一緒に摂ることによる影響も考える必要があります。

食物中のゴイトロゲンは微量で、実際には問題にならないという説もありますが、実際に過剰摂取による甲状腺機能低下を見たことがあります。

マクロビオティックの健康問題の原因は塩分の問題、食事量、反現代医学的な態度など色々ありそうなのですが、栄養素不足に大きな要因があると考えています。マクロビオティックを実践している人はあまりサプリも摂らないでしょうし、少食であればこれらの問題が解決すると考えている人が多いように見えるからです。

ビタミンB12は植物性の食品で代替できると一部でされていましたが、やはり植物性だけでは不足しやすいとの議論も出ています。

Nutrition and Health – The Association between Eating Behavior and Various Health Parameters: A Matched Sample Study

この論文も菜食主義の健康への影響については否定的な結論です。

The association between high plasma homocysteine levels and lower bone mineral density in Slovak women: the impact of vegetarian diet | SpringerLink

ビタミンB6、12不足により、長期の菜食主義者は高ホモシステイン血症になりやすいという論文。高ホモシステイン血症と言えば、血管障害との関連で我々業界ではよく知られています。また、認知症やうつとの関連も指摘されています。菜食主義でどのくらいの高ホモシステイン血症になるのかは、要旨しか読めなかったのでここではわかりませんでした。すみません。。

http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/nejmoa011613

高ホモシステイン血症といえば、認知症アルツハイマー認知症へのリスク因子であるという指摘もあります。

http://www.fertstert.org/article/S0015-0282(16)49884-5/abstract

ベジタリアンでは月経異常が起こりやすいという論文(抄録のみ)

ijbnpa.biomedcentral.com

これは、ベジタリアンの食事をとる成人対象者と精神疾患との関連についての論文。うつ病や不安障害、身体表現性障害などがベジタリアンで多く見られ、肉の摂取量の低さと精神疾患の発症率の高さが関係していたとのこと。ただし、分析では精神疾患の発症後に菜食主義になっていることが多いため、食事が精神疾患の発症率を上げているというより、むしろ特有のメンタリティーが菜食主義を選択させるのではないかとも書いている。また、背景の所で、アドベンチストのスタディを挙げ、宗教的なバックグラウンドがある場合は菜食主義は精神的な健康により寄与すると述べている部分もあり(別の論文ですが)。 論文の要旨としては、「欧米社会では」ベジタリアン精神疾患と関連しているという結論になっています。アジアのことはよくわからないというニュアンスも感じます。

nutritionj.biomedcentral.com

逆に、動物性食品の制限が気分を改善するとの報告もあります。

 https://ajp.psychiatryonline.org/doi/abs/10.1176/appi.ajp.159.12.2099

高ホモシステイン血症、ビタミンB12葉酸欠乏とうつ病との関連を指摘する論文もあります。

https://academic.oup.com/rheumatology/article/37/3/274/1783044

乳酸菌の豊富な生のヴィーガン食は、リウマチの自覚症状の低減に効果的であるという論文。ただし副作用によるドロップアウトが結構あったようです。

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/030097400447697

ヴィーガン食が線維筋痛症の痛みを少なくとも短期間は和らげるという論文。https://academic.oup.com/jn/article/122/4/924/4754819

こちらは極端なヴィーガン食が大腸がんのリスクを上げるかもしれない、というもの。http://www.medical-hypotheses.com/article/S0306-9877(08)00383-6/abstract

はたまた、ヴィーガン食は低メチオニン食になるので寿命を延ばす効果があるのではないかなど。この手の論文は拾ってみるとどんどん出てきて書ききれないのでこの辺にします

www.sciencedirect.com

トルコのスタディでは、菜食主義者の思春期の対象者では低い自己評価、社会的、身体的不安、特性不安がより強く、食事に対する態度の問題がより見られた。

onlinelibrary.wiley.com

拒食症の人の中で、ベジタリアンの人はより節制し、過活動的、水分をたくさん摂取し、肥満への恐怖が強く、その家族はより心配が強い気質の傾向があるという記事。

academic.oup.com

菜食主義と環境問題についての論文(他多数あり)

 

 ベジタリアン関連の論文はまだまだありますが、紹介しているときりがないためまとめてしまうと、

ベジタリアンと一口に言ってもヴィーガンからラクト、オボベジタリアンなど様々な形態があり、一概に論じるのは難しいこと。

・調べる限り、注意して食事を摂取していればヴィーガンマクロビオティック以外はさほど健康に大きな問題は生じず、いくつかの疾患について菜食主義は予防的効果が期待される。

ヴィーガンについてはある種の疾患の症状軽減に効果的かもしれないが、食事が体に合わない人が結構いるかもしれない。

マクロビオティックは癌の予防などに効果的との論文が複数あるが、健康被害の報告も多い。

精神疾患についての菜食の影響ははっきりしない所があるが、菜食が精神面で何らかの影響を及ぼすと考えられている。

・環境問題や肉の飼育におけるさまざまな問題(抗生物質の使用や感染症)などが人体に及ぼす影響を考えると、個人の健康問題としてではなく、集団の健康を守るという意味で、菜食主義というアイデアは検討すべき課題でもある。

というものです。論文というのは真実というより、真実の断片みたいなものなので、それを軽くまとめた話が上記の赤文字部分となります。過不足があると思うので今後また折に触れて調べてみたいと思います。

 

ここまでが西洋医学的、栄養学的な話になりますが、食物というのは栄養学的にすでにわかっていること、まだわかっていないことがあり、現代の栄養学だけで十分に説明できないことがあると考えています。

それについて、私の専門に近づいて、薬膳的な話で説明してみたいと思います。

栄養学的にはラクト・(+できればオボ)ベジタリアンであればむしろ理想的な栄養バランスになりうるのですが、同じ動物性たんぱく質でも、薬膳的には、牛乳と卵と肉はそれぞれ体に対する作用が違っています。

https://www.honzou.jp/wordpress/食薬

なので、体質によってはベジタリアンがいいかもしれないし、肉を摂ったほうがいい場合もある…という話になります。(もちろん摂りすぎはよくありません)

体質によってベジタリアンが向いている人もいれば、そうでない人もいる、というのはアーユルヴェーダの先生も言われていましたし、私もそう考えています。

アヒムサーとしてのベジタリアンというのは、高度にイデオロギー的な食事の選択であり、考えて選択をするというのは、ヴェーダンタのクラスでも説かれるように、人間にしかできません。人間が動物であったなら、何も考えずに、肉があればそれを食べるでしょう。日本人はその文化的な背景から、人間の身体性について独自の見解を持っており、菜食主義の持っているイデオロギー性を食事を通して身体に繰り込むことに、抵抗感のある人が多い印象があります。

菜食主義は、アヒムサーをできるだけしたくないという内発性から、結果としてそういう選択をしたくなる、というものであることが本来望ましいと思います。

ヴェーダンタの勉強は師について行うものであり、師の言うことには絶対的に従うものなので(師を通して神を理解するため)、菜食についても服従として行うことはあるかもしれませんが。

一方で、ヨーガとしては、自己がこの世に存在するための器である身体をできるだけ健康に保ち、 体に負担をかけることを避けるようにすることも求められています。

そのことが精神的な健康にもつながります。

そのため、健康的にできるのであれば菜食は望ましいと思います。

ただ、日本人には乳糖不耐症が多く、食文化的に乳製品をさほど摂らないことや、野菜に含まれるカルシウムやミネラルが他国より低いかもしれないこと(ヨードは大丈夫ですが)、日照量が南方のインドより少ないことなどから、菜食を行う際には色々な注意を払いつつ行う必要があると思います。

何も考えずに菜食をすると体調を崩す可能性があるため、自分の体をよく理解し、その変化に気づき、自分の体に必要なものがきちんととれるようになる必要があるわけで、アーサナのヨーガを正しく行うことでこれらの力は身につくかもしれません。

体の鍛錬なしにこれらを行うためには、知的な意識の持ち方などが必要になるでしょうが、知識というのはつねに不完全なものでもあります。

アーサナで鍛錬していたとしても、やり方が間違っていればやはり体を害する可能性があるため(菜食をするかどうかにかかわらずですが)、ヨーガというのは正しく行うことがやはり大事であり、そうでなければやらない方がいいぐらいです。

しかし、「何が正しく何が間違っているのか」については、かならずしも答えが一つになりません。

色々な考え方、行い方があり、そのどれもが間違っているとは言えません。

この辺りが非常に難しく、「その人にとって正しい答えがある」という言い方にしかならないと思います。

私自身は、ヨーガの指導者が「水を1日に4リットル飲みなさい」「冬でも水シャワーを浴びなさい」などと、多くの人に向かって言うことは注意した方がいいと思っています。鍛錬した人が自分の身体をよく把握したうえで、師との信頼関係の上で行うのとそうでないのとでは、効果が変わってきます。下手をすると低ナトリウム血症やヒートショック症候群を起こしてしまいますし、やはりインドと日本は気候が違うので、行うべきこともある程度違っていていのではないかとも思います。

菜食についても、それを行うことで本当に健康な人もいれば、アヒムサーの実践として、自分の健康よりも大事なこととして、菜食を実践するということもあるかもしれません。

何を大事だと思うかは人によって違うため、自分の職業的な見解を別にすれば、それはその人の考え方として尊重したいと思います。

日本のヨーガの現状は(欧米もそうですが)、アーサナがフィットネス的扱いになっており、本来の目的が失われた状態で中流以上のファッションとして流行してしまっており、真面目にやっている人がそれを嘆く気持ちは良く分かります。

「自分はいち早く本来どうするべきかが分かったのに、何故他の人はそれが全く理解できないのか分からない」

「体をいじくりまわすことに時間をかけていないでもっと大事なことを勉強したらどうなのだろう」

「良心と常識があればヤマとニヤマはすでに実践できているはずだ」

として、菜食主義者以外には教えないという態度は、それはその人の態度として正しいと思いますし、そうではなく、「世界が大きく変化しているので、良心と常識が皆にとって自明のことかどうかから確認していく」「日本人には本質的に理解されていないヨーガをできるだけわかりやすく、入りやすく教えていく」「身体の鍛錬をつきつめることでアーサナをやっている時だけでなく、他の時でも、よりヨーガ的な生活を送ることができる」という主張をすることもまた、そのヨーガを行っている人の態度です。

教わる側としてはどの先生についていくのかを考えればいいと思います。

ヨーガの先生にもヴェーダンタの先生にも、「自分のやっていること(だけ)が正しい」という態度を感じる人が時々いますが、自分のやっていることに自信がなければそれもやる意味がないかもしれないので、必ずしも悪いことではないかもしれません。

話が脱線しましたが、菜食については、私のヨーガの先生の「菜食をしてもいいけど、それにとらわれないこと」という言い方が私としては適当ではないかと考えています。

また、人の体はそれぞれ違っているため、ヴェーダンタの追求をしていく少数の人達は別として、多くのそうではない人達には、その人がもっとも健康でいられる食事や生活をお勧めできればと考えています。

 

 

 

 

 

脱北者ラッパーの歌を翻訳してみた

www.youtube.com

(追記:ブログ記事にしてみて、日本語的に少しおかしい部分を微調整しました。)

내 출생지는 북방의 86년생 범띠
俺は北朝鮮生まれ 86年生まれの寅年
돼지새끼보다 3년 늦게 태어났네
あの豚野郎(金正恩)より3年遅く生まれたよ
하지만 어릴 땐 너란 존재 자첼 몰라
だが幼い時はお前の存在も知らず
먹고 살기 바빠 거리를 헤매기 일쑤
ただ生きて、食っていくのに必死で街をさまよう日々
내 가사엔 펀치 라인 필요 없는 의미
俺の歌詞にはパンチもラインも不要な意味
뱉는 거 자체로도 벅차네 그 의미
語ることすら無理難題な意味
후회해도 늦어 깨물어 꽉 어금니
後悔してももう遅い、ぐっと奥歯を噛みしめて
맞고 울며 도망쳐도 사정거리 니 mommy
殴られて泣いて、逃げても射程距離 mommy

그 땅은 리설주가 조국의 어머니
この地では李雪主(※1)が祖国の母
But she's not my 어머니 내 어머니가
でも彼女は俺の母じゃない
아오지에서 얻은 건 결핵
俺の母が炭鉱でもらったのは結核
땅굴 판 돈 착취해서 만든 것은 핵
坑道を掘った金を搾取して作ったのは核
Oh shit 배때지에 살이나 빼
Oh shit 痩せろよブタ野郎
도발은 그만 만들 때 됐네 식스팩
挑発はたいがいにして
作るんならシックスパックでも作っていろよ
눈치로 이제 점점 찌네
段々太ってきたのが人目についてる
망신살이
大恥もんだぜ
디스는 충분 풀게 이제 내 얘기
あいつをdisるのは十分やったから次は俺の話
반통짜리 몸뚱아리 반통짜리 정신머리
半分の体、半分の心(※2)
반통짜리 어디 가니 금 밟으면 뒤져
半分、どこに行っても線(38度線)を踏んだら死んじまう
붙혀 나라 오공본드로다가
オゴンボンド(※3)とかで国同士をくっつけよう
옆집 아주마이 몰래 주머니를 뒤져
隣の家のおばさんがポケットをくまなく探している
내 새끼 조막손에 피 묻었네
私の子(※4)の縮こまった手に血がついている
내 새끼 종아리에 거머리가
私の子のふくらはぎに蛭が
달아 달아 밝은 달아 아침 좀 늦춰 다오
月よ月よ、明るい月よ、朝がくるのをちょっと遅らせて
내 새끼 살린다면 내 숨은
私の子を助けるなら私の命を(差し出してもいい)
그때 걷어가도 좋소
あの時歩いていってもよかったでしょう
순수하게 호랑이가 담배 피던 시절
無垢な虎がタバコを吸ってた頃
10살 때 나도 형들 따라 담밸 물었지
10歳のころには俺も兄貴たちについてタバコ集めをしたんだ
처음엔 괴로웠지만 점점 빠져드네
最初は辛かったけど段々ハマっていった
괴로운 인생보다 훨씬 달콤했기에
辛い人生よりはるかに甘かったタバコの味
12살 때 새로운 세상에 발을 들여
12歳の時、新しい世界に足を踏み入れた
땅을 밟은 순간 눈알이 튀어나올 뻔
その地に立った瞬間目が飛び出たぜ
타임머신 타고 미래로 건너왔지만
タイムマシンに乗って未来に来てはみたが
기쁨도 잠시 여기저기 먹잇감 신세
喜びもつかの間、あちこちエサの世話(※4)
벙어리 된 신세 개같이 숨어 다녔어
啞者になった身の上、犬のように隠れて回っていた
해가 지면 좀비 마냥
陽が沈んだらゾンビのように
 거리를 기어 나와
ひたすら道を這って出てくるんだ

니코틴 중독 바닥에 꽁초 주워 피며
ニコチン中毒になって 道に落ちてる吸い殻吸って
흘린 빵 떡가루 주워서 끼니를 때웠네
落ちてるパン屑や餅の粉を腹の足しにした
애들 공부할 때 국적없이 방황을 배워
他の子たちが勉強している時俺は国籍なくさまよい
결국 뼈가 되고 살이 되었네 지금은
結局それが今思うと身になった
배고파도 한 가지는 안 버린 자존심
腹が減っても自尊心は捨てない
하나로 버텼네 유소년 시절을
その一つで持ちこたえた幼き頃
 
반통짜리 몸뚱아리 반통짜리 정신머리
반통짜리 어디가니 금 밟으면 뒤져
붙혀 나라 오공본드로다가
옆집 아주마이 몰래 주머니를 뒤져
내 새끼 조막손에 피 묻었네
내 새끼 종아리에 거머리가
달아 달아 밝은 달아 아침 좀 늦춰 다오
내 새끼 살린다면 내 숨은
그때 걷어가도 좋소
(繰り返し部分のため訳は省略)

열여섯 살 되던 해 조용한 새벽
俺が16歳の時のある静かな明け方
갑자기 어둠이 내 가족을 덮쳤네
突然俺の家族に問題が押し迫った
협박 공갈 모두 버텨 지하 철창 속
脅迫や恐喝、すべてこらえて地下の鉄格子の中
남은 건 철창보다 괴로운 인생 길
残っていたのは鉄格子の中よりもっと辛いこれからの人生
위기모면 난
危機を免れた俺は
 다시 미래 향해 여행
ひとまず未来に向かって旅行に出た
필리어스 포그처럼 80일 간의
Phileas Foggみたいに、80日間
세계 일주 아니어도 지도 한 장
世界一周まではいかないけど地図一枚分
배짱과 함께 돌았네 지구 반 바퀴
固い決意とともに、地球半周
지금은 내 발에 신어진 하얀 jordan
今俺が履いているのは白いjordanの靴
그땐 고무신조차 없던 맨발 소년
あの時は、ゴム靴もなく、裸足の少年だった
겁 없이 베트남 라오스 캄보디아
恐れずにベトナムラオスカンボジア
싸와디캅 태국 거쳐 드디어 대한민국
サワディーカップ!(※5)タイを経て、ついに大韓民国に来た
난 다시 태어나 대한남아 눈 감아
俺はその時生まれた 韓国男児よ目をつぶって
목 놓아 참아 냈던 눈물 모두 쏟아
首を据えて我慢してきた 涙は出尽くしてしまった
마침내 도착했네 바라던 새 터전에
ついに到着したんだ 願っていた新しい挑戦
인생은 재 시작 But 이 악물고 새 시작
人生は再スタート but 歯を食いしばって新たなスタート
이건 내 살아온 인생 절반의 노래
これは俺が生きてきた人生の前半の歌
그러나 어디선가는
けど、どこかで
아직도 못 듣네 이 노랠
この歌も聴けない
내 가사 속에 잠든
俺の歌詞の中で眠っている
수 많은 부모 형제 친구들
数多くの両親、兄弟、友達
부디 평안하게 눈 감아 주길
どうか安らかに目を閉じてください
나눠진 땅에서는 끝나지 않을
分断された地で、終わらないであろう
never ending story.
The story will be Continued.


<注釈>
この歌詞は私には訳が難しく、間違っている部分もあるかもしれません。
間違いを発見した方は私のツイッターアカウント(@zhishangtanbing)までメッセージを頂けますと幸いです。
今の韓国では使わない北朝鮮の単語も混じっています。
若者っぽい表現にしようかと思いましたが歌詞自体がやや古典的なため、ほぼ直訳にしましたが、意訳している部分もあり、日本語の表現を原文と変えたところもいくつかあります。
 
(※1) 金正恩の妻
(※2)  韓国に半分、朝鮮に半分という意味と解釈しています。
(※3)  接着剤のメーカー品
(※4) 二つあるのですが、この部分は良く分かりませんでした。とりあえず文字通り訳しています。
(※5) タイ語で「こんにちは」の意味

「イオの惨劇」の冬野ワールド

 
著者の冬野由記さんとは、実は面識があり、冬野さんの書いた絵をしばらく診察待合室に掛けさせて頂いていました。
面識はあるのですが、実際の人物よりもどちらかというとネット上の冬野さんの方をよく知っているという感じです。
 
pianqueのツイッターは当初、中医学に関する色々な情報や勤務先のスケジュールなどを発信する目的で始めたのですが、ツイッターのコミュニティをしばらく見ていた結果、現在単なる内面のつぶやきを発するものと化しています。
勤務先のスケジュールも書こうとは思ったものの、あのタイムラインを全部見てスケジュールをフォローする人などいないわけで、もっぱらHPでの公開となっています。
そのツイッターで冬野さんを知ったのですが、家に置いてあった絵の描き手であることを知ったのはかなり後のことです。
 
うちには本棚がいくつかあり、仏教書コーナー(といっても数冊ですが)に一緒にあった「イオの惨劇」という本のタイトルだけは前から見ていたわけですが、作者名にふと目が行ったのもなぜかつい最近(こういうこと、皆さん経験ないでしょうか?)で、冬野さんの書いた本ということで早速読ませて頂きました。
 
「イオの惨劇」はSF小説で、21世紀末が舞台になっており、地球以外の太陽系の惑星などにも人が住んでいて、かつ、特殊な能力を持つ「テレパス」という人たちが惑星間の通信を担っているという設定の物語です。
物語の中では東京は戦禍で荒廃しており、物語の舞台の一つに「月端」(現在のつくば市)が出てきます。もう一つの舞台が木製の惑星であるイオです。
主人公はリンとリョウという少女と少年。この二人は特殊能力を持つテレパスであり、それぞれ違う惑星に住んでいながら互いに恋愛感情を持つ特別な関係となります。
この二人と、周囲の人物を軸に話が展開していきます。
 
中学生以降ぐらいから、SFものはほとんど読んでいないpianque(新井素子とか星新一ぐらいしか覚えていない)、その理由は「リアリティを感じないから」だったんですが、今回久々にSFを読んでみるとなかなか楽しい。
文章自体の面白さもあるのでしょうが、最後まですいすい読み進んでいました。
考えてみればSF以外の小説だってフィクションと言えば全部フィクションなわけで、物語として面白ければジャンルで偏見を持つ必要もなかったのです。
 
この小説が書かれたのは2003年です。
当時はといえば、私がマックのノートPCを買ってワープロ代わりに使っていた頃で、学会発表は写真屋でスライドを作成し、スマホスカイプもなければ確かネット通販もそれほどはなかった時代。
と、ここまで書いた所で、2003年と今との違いがそれほどあるのかというと、ネット環境の普及ぐらいかもしれないとも思いました。
他にも地デジとか色々な違いがあるかもしれませんが、すぐに思い出せません。
2017年にこの小説を書いたら、ディテールは少し違っていたかもしれません。
しかし、我が職場を見返してみると、いまだに診療情報提供書をわざわざ患者さんに取りに行ってもらうとか、処方薬の情報が全く共有されていないとか、医師資格証の取得に医師会まで行かないといけないとか、紙の書類があきれるほど多いとか、色々な点で大してデジタル化されていないことから、ネットはまだ(少なくとも日本の、我々の業種においては)ラディカルに職場環境を変える所まで行っていません。
私たちが今「未来の社会」としてイメージするものと、2003年の人がイメージするものとは、大まかには違わないという気もします。
2001年宇宙の旅が2001年には実現しなかったことを考えると、我々の想像力は今のところ現実を上回っており、それは人間の文明にまだかなり進歩の余地があることを示しています。
 
SFを書くのは相当に色々な考察が必要なはずです。
時間や距離の感覚、構成、空間的想像力、書こうとしている事象について科学的に大きな矛盾がないかなど。
そのうえで自分の世界観を描くという作業です。
それを考えるのが作家さんの楽しみの一つでもあるのでしょうが、映画の製作に近いものがあるかもしれません。
この小説の一つの世界観が「電波などが届きそうにない惑星間の通信を、特殊な才能を持つ人間のコミュニケーション能力に委ねている」という点です。
この発想がSF界ではわりと普通のものなのか、pianqueには判断ができないのですが、「人間の心と心のやり取りが時空を超えて違う惑星まで届く」という解釈にすると、とても詩的な世界となります。
さらにこの話は、二人の主人公たちの愛の持つ力の理由が、この時代においてもまだ未解明のままであるという設定であり、文明が相当進化しても人間の心にはまだ未知の部分があるということになっています。
この「分からない所がある」ことが魅力を持つものです。
全てが分かってしまった世界で物語の面白さは生まれません。
 
この小説は他にも、詩的な部分がかなりあり、SFというジャンルがむしろその部分を表現するための表現方法であるようにも見えます。
スペース・オデッセイとしては、かなり序盤の部分で本が終わってしまっているため、いくつかの伏線が回収されず、時間軸がつかみにくいところもあるのは残念で、本来はいくつかの続編のあとに完結する話なのだと思います。
また、ストーリーの中に矛盾がないわけではないのですが、これはSFものを見るとたいてい少しはあるので、そこに目くじらを立てる必要はないでしょう。
 
それよりも、小説の細部に、作者の持つ世界が散りばめられており、それがまとめきれなかった、そういうコンテクストの(過剰ともいえる)豊富さを感じます。
 
政治的にこの小説で描かれる時代である21世紀末のレジームがどうなっているのか、現在の我々には想像もつきません。
2003年よりも現在の方が、民主主義の限界が色々見えてきており、かといってそれに代わるイデオロギーがまだ今の所見つかっていません。
東西や左右の対立よりも経済格差による対立が鮮明化してきている時代でもあります。
また、この本が書かれた頃にはあくまで仮想だった米中戦争は、この頃よりは現実味を帯びてきています。
SNSが世論を形成し、それがまだ主流ではないものの、「保育園落ちた日本死ね」のように、ネット世論が政治を動かす実例も出てきました。
この小説の中では核戦争は出てこないのですが、起こる可能性もなくはないぐらいというぐらいになっています。
 
もしも私が未来のレジームをSFとして描くのであれば、やや戯画的に、人間に政治的なアイデアを出させて行政官僚をすべて人工知能にする(そうすれば官僚の腐敗を予防できるだろうから)というアイデアにすると思います。
ただ、それだけでも、最善と思われるイデオロギーよりも強力にレジームを変えてしまうかもしれず、人工知能を話に入れてしまうと全てのディテールを一から考え直すことになるのかもしれません。
私にそんな筆力はないため、よほど時間をかけて練らない限りこの思い付きはお蔵入りするでしょう。
この話の中に人工知能はあまり出てこないのですが、SFが表現の方法であるという見方にたつと、その方がむしろ分かりやすい話になっていると思います。
 
この小説の中では、政治的、歴史的な変遷についての挿話がいくつかあり、ここはSFになじみがあまりない人にも読み応えのある部分です。
イデオロギー的に未来の政府がどうなっているかは書かれていませんが、この世界の中では宗教はまだ存在しているようです。)
そういう部分もあれば、恋愛小説的な部分、小説としての写実性にすぐれた部分、作者の豊富な趣味をうかがわせる部分もありで、むしろこの作者自身に興味を持つ人がいるのではないかと思ったりします。
私は、残念ながら芸術的な才能にはほとんど恵まれず、センスに関わる話は全て連れ合いに任せている人間なのですが、作者の多才ぶりを羨みつつ、小説の続編を心から期待しています。
とはいえ、こういう小説形式ではなく、作者がもう少しエッセイ的にご自身の体験を描くスタイルにするのでも、それはそれでかなり面白くなりそうな気がしています。
 
 
 
 

北条かやさんと「二十歳の原点」

北条かやさんの本は、ちょっと前に私の連れ合いが「キャバ嬢の社会学」という本を持ってきたので、それを読んだことがあります。
内容はすっかり忘れてしまったのでさほど印象が強くない本だったかもしれません。


その後、ネットでのいくつかの炎上事件があり、ネットでものすごく叩かれていたので、その詳細をちょっとだけ読んでみたのですが、あまり細かく読まずにあえて言うと、何でここまで叩かれるのかわからない(「こじらせ女子」の件とか、確かに北条さんがうっかりやってしまったみたいだけど、それほど重大な問題だろうか?)という感じでした。
一部の人にとっては非常に重要な問題だと思うので、その価値観について特に口をはさむつもりはありません。

「救急外来にかかったらビタミン剤と咳止めだけ処方されて7000円取られた」というのも、「医者にかかったら風邪が早く治るという迷信を信じてしまっている人」は世の中にたくさんいるわけで(実際に医師の診察が有用なのは風邪と他疾患の鑑別においてぐらいしかない)、そういう人たちに「ああ、救急にかかるとこんなにお金取られるのに、せいぜいビタミン剤ぐらいしかくれないんだな」と知ってもらうことは、不急の救急受診を減らす上でむしろいいのではないかと思いました。
しかし、ツイッター上のお医者さん達の反発は結構買ってしまったようです。
 

togetter.com

 

まあこれを見ると北条さんも結構強く、ヒステリックな言葉で言い返しているよねえ。




そして本人のブログも読んでみたわけですが。
 

ameblo.jp



本人は自虐のつもりでも、他人を傷つけている言葉って結構あるわけです。
ご本人は、「こんなBBA」「もうオバハン」と書いているのですが、だとしたら彼女よりずっと年上の私は何?とか、
「ブス」と言っても実は自分はかわいいと思っているんだよね…というセルフィ―とか、「自分はブス」の比較対象がモデルさん達だとかで、特に女性たちの気分を大いに害するものがあると思います。
(pianqueはこう書いていますが、あ、そ?っていう感じではあります。
私の連れ合いによれば、女性はみんな自分のことが一番かわいいと思っているそうで、目いっぱいおしゃれをした時の自意識過剰さというのは、私も含め多くの女性が経験していると思うからです。
とはいえ、メイクと整形で女子力を重武装しているような人にもし「pianqueさんはそのままでいいのよ」とか言われたら…pianqueもそこまで人間ができていませんから、もしかして殴っちゃうかもしれません。
これを受験に例えれば、ガリ勉して有名大学に受かった人に、あまり努力せず偏差値が高くない大学に入った私が「一度しかない青春を勉強だけで過ごすのは勿体ないよね」と言われるようなもんですから)

ただ、彼女はやっぱり、まだ若く、そして幸せではないのかもしれないなあと。
若い頃は多分、みんな一時的に不幸な時があって、それはやり過ごさないといけない時なのではないかと今になって思ったりします。
北条さんが、まったく何もしなくてもよさそうな腕と足をマニアックに脂肪吸引やったりしているのを見て、「今の自分が嫌い」「自分を変えたい」「愛されたい」という、色んなメッセージを察知してしまうわけです。
そういうメッセージを本人がある程度意図的にやっている節もブログの文章をよむ限りでは、ちょっとはある気がしています。
テレビに映る姿は彼女のキャラクターのせいなのか、整形とメイクでまるでお人形さんみたいになってしまっているからか、私にはすごく不自然に見えます。
本人も「内面の美は外見の修正では補えない」ことはよく知っているみたいなのです。
しかし、その言葉に反して、服やメイク、おしゃれのためのグッズ、整形…彼女のブログはそういう外見を飾るものにあふれています。
ご本人は仕事のためにやっていると書いているけど、私が仕事のためと称してヨガをやっているのと同じく、それは言い訳かなあと。

すごくありきたりな言い方なんですが、その外見に対するこだわりが傍からは「この人は本当は自分が嫌いなのではないか」と見えてしまう。
斎藤薫氏が昔、4時間かけてメイクする浜崎あゆみについて同じことを書いていました。

美を追求する旅には終わりがありません。
そしてほとんどの女性は、どんなに整形をしてもメイクをしても、ファン・ビンビンみたいな(←私の好み入ってますが)絶世の美女にはなれないということをよくわかっています。
そして追求したからどんどん美しくなるかというと、むしろピークの後は徐々に落ちていくことになります。
かくいう私も、5年ぐらい前までは「女性としてまだ見られるかも」と、内心ひそかにちょっとだけ思っていたのですが、最近はさすがに賞味期限切れの納豆のごとく(かつ、実際に食べられるかどうかもギリギリの地点)、私を見慣れている連れ合い以外の男性にもはや何の需要もないということを、ひしひしと噛みしめております。

(その後の浜崎あゆみの容姿が色々取沙汰されるところをみると、ちょっとかわいそうになってきます。)


このブログで書いたことがあるんですが、北条さんと同じく、私もごく地味な10代を送っていました。
服やおしゃれにお金を費やしたり、男に媚びるために自分の外見を磨き上げることにしか興味がない、そういう女になりたくないと思っていました。
しかし、おしゃれをするというのは、女性の大きな楽しみでもあります。
その楽しみに気づいてから、反動で20代の終わりぐらいに服をたくさん買ったり、ブランドもののバッグを買ったこともありました。
当時大阪に住んでいた私には阪急百貨店のショーウィンドウに飾られていたフェンディのバッグがとても眩しく見えました。
しかし買ってみてしばらくするとその輝きがなくなることが分かって、以後買うのはやめましたが。
後から考えてみると「服やおしゃれにお金を費やす女」という思い込みも私の中二病黒歴史というか、随分と雑なステレオタイプです。
私は自分が女子のメジャーなコミュニティに入れなかったことを「そういう女になりたくないから」にすり替えてしまっていました。
実際にはもっと深刻なディスコミュニケーションとか、タガメ女全盛期の社会の規範に私が馴染めなかったとか、家庭環境とか、そういう色々な問題が関係していました。
 

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おしゃれのもう一つの意味は、女子の仲間うちのマウンティングの武器の一つです。
最近では男に媚びるためというより、むしろこちらの意味合いが大きいかもしれません。
北条さんはそうした、学校や職場、ママ会などどこにでもありそうな、仮想女子グループの中の小さなカースト競争に乗ってしまったように見えます。
今の彼女ならそんな競争に乗らなくてもいいはずなのに。

マウンティングというのはどういうことかわからない方はちょっと前のドラマ、「ファーストクラス」や、最近ネットに出ている東京カレンダーなどの記事からお分かりいただけるかと思います。

はたから見ているとつまらない、そこから抜け出したいと思ってる女性も多いはずの小さな世界。
北条さんがなぜそんな狭い世界に自ら入っていくのか。文学的に想像してしまうなら、北条さんは昔どこかで、カースト競争の中で負けてしまったのかもしれません。
そしてそのカースト外にあることの疎外感を見に染みて感じているのかもしれないと。
そして、誰もが自分をより賢く、正しく見せようとするSNS界隈で「負けてしまった」ことで、リアル世界に生きている自分を女の競争のためにさらに武装する…というのはちょっと言い過ぎでしょうか。

誰からも好かれたいというのは、中二病というか、多分小二病ぐらいの話ではないかと思います。
年をとるにつれて、プライベートでも仕事でも、誰にでも好かれるわけではないのだということも、それでいいのだということもわかってきます。
そしてそれこそが自分自身なのだということも。
もし他人から愛されたいのであれば 何よりも自分自身を愛する必要があります。
そしてそのためには自分自身の醜い面もきちんと自分に見せる必要があるのです。
そのためには、誰かを真剣に愛する必要があるかもしれません。
その誰かは恋人でもいいし、家族でも子供でもいいかもしれません。
その人の前で醜く欲望の深い自分をさらけ出し、その自分を含めて、愛することができればいいのです。
いつまでも綺麗なままではいられません。
真の自分と向き合えない限り、自分のイメージの中の「理想の自分」という虚像を追い求めつづけることになります。
 
「そんなこと、言われなくてもわかってますよ」
分かってる?本当に?私にはそうはみえないんだけど。
 

世間は女性に若さと美しさを求めながらも、一定の年齢を過ぎてからは、大人としての自立も期待します。
30を過ぎた女性がなんかフワフワしていて、責任を負わなくていい生き方をしていることをよく思わない人は意外にたくさんいるかもしれません。
その人たちにとっては他人の人生なので別に干渉される理由もないのですが、そういう女性がメディアに出て発言するということは、そういう世間のアンチ票を拾うことでもあります。
 
そう、フワフワと生きている人は、日陰で生きているほうがずっと楽なんです。
 
なので、北条さんに本をもし送るとしたら、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」あたりでしょうか。
ベストセラーなのでお読みになっているかもしれないのですが、本を読むということと、その中身を掘り下げていくことは、次元の違う話だと思うからです。
 
こうして色々書きましたが、北条さんのブログは結構読ませていただきました。
ひと世代若い人達のファッション(すべてのアラサーを代表するわけでもないでしょうが…)がわかって、その点はなかなか楽しかったです。
 
ブログを読んでいて、ああこれは、昔「二十歳の原点」を読んだときの感覚と似ている、と思いました。
二十歳の原点」の著者は学生運動に参加していたものの、時代の流れに流されてしまい自己が崩壊して自ら命を絶ったのでした。
この著者が書いた詩は、未熟で粗削り、そういう詩なのですが、読む者に自分の若い頃を思い出させるストレートなメッセージがあります。
でも、北条さんの著書まではちょっと買わないかな…とは思いました。
 
ちょっと前にツイッターで北条さんを「アスペルガー」と書いた人がいて(アスペルガーアスペルガーと書いて何が悪いとかいうまとめの見出しを見ましたが、明らかに悪いと思います)、それは非常にまずいと思ったのでツイートを出しましたが、書いた人のTLを見てみると、何故か北条さんがらみのツイートが結構多い。
どういう感情を持つにせよ、気になってしまうということではないでしょうか。
もしかすると、ある種人を引き付ける力のある人かもしれないと思ったことと、
もしかすると、それは若い頃の椎名林檎Coccoの不幸さに惹かれてしまっていた普通の人たちの、残酷な好奇心と似ているかもしれないと思いました。
 
 

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんに思うこと

千葉麗子さんや片岡鶴太郎さんなど、有名人でヨガをやっている人が何とも残念なことになっているという事実は、ヨガをお勧めするものとしては大変心が痛むものです。

それぞれの方がどういうことになっているかはネットで調べて頂くとお分かりいただけるかと思いますが、本人たちがどう思っているかはともかく、とくに千葉さんは、傍目にはあまり幸せそうに見えません。

ヨガをやっている人が政治的主張を持ってはいけないということではないですし、状況により必ず主張すべきことは出てくると思いますが、彼女がメディアやネットで繰り広げている一連の言動は、やっぱり、幸せではない人のやることに見えます。

さまざまな事情があったのでしょうが、彼女が告白している不倫問題も、それは配偶者との絆を深められなかったということでもあるので、少なくともヨガ的な生き方ではないと思います。

挙句、不倫相手について本であれこれ暴露してしまっているようですが(読んでいないのでもし間違っていたらすみません)、その暴露が世間的にネタにはなっても、誰を幸せにするのだろう?というのが問題です。

 

彼女のやっているヨガは「インテグラルヨーガ」というものらしいですが、ヨガの持つ膨大な世界を「統合する、まとめる」などということは、少なくとも他の色々な活動をしながら片手間にできるものではありません。

ヨガを専業にしている人にすら非常に難しいことです。

人間は、どうしても自分の思い込みにとらわれてしまうものであるという自覚があれば、「まとめる」という行為自体が「いいとこ取り」、つまり、本質の理解からはほど遠くなるということに気づくはずです。

 

もともとヨガに興味を持つ人の中には、一定数、心に問題を抱えていたり、精神面で少し不安定だったりする人がいます。

女優さんなどがヨガにはまるのも、たんに美容的関心からだけではなく、不安定な仕事などでそうした問題が起こりやすいからと考えることもできます。

ヨガをやっている女性にはもともと綺麗な人も多いのですが、綺麗な人ほど色々精神的に問題を抱えやすいという例は枚挙にいとまがありません。

なので、精神的問題を抱える人達が(男女問わず)一つにはその解消手段としてヨガを選ぶわけですが、実際にはヨガのアーサナ(座法)を行うだけではそれらの問題は解決しません。

アーサナを行う際は、その前提となる「ヤマ」と「ニヤマ」という概念がとても大事で、これらのものは不可分です。

その二つができるようになることはとても難しく、ほとんどの人にはおそらくできませんが、少なくともそれに近づいていこうとする姿勢は持ち続ける必要があります。

 

片岡鶴太郎さんに関しては、やっぱりグル(導師)が悪かったのではないかと思うのですが、そうではなく自己流の解釈でやってしまったということかもしれません。

ただ、片岡さんの場合、ご自身は幸せに感じていらっしゃるかもしれないので、そうであれば他人がどうこう言う問題ではないかもしれません。

私が問題に感じているのは、一日数時間にもおよぶヨガや瞑想が本当に健康によいのか?ということだけです。

人間は健康のために生きているわけではありませんし、ヨガには、一つのアーサナを行えばそれで充分という考え方もあるのです。

 

おそらくですが、ヨガに本当に真面目に向き合っている人というのは、メディアで有名になる人ではないと思います。

そういう所にあまり興味を持たないでしょうし、それで心が満ち足りているからです。

 

それにしても、「ヨガをやっていて不幸になるのはヨガが悪いからではなく、特定の人が個人的に悪いからだ」的な話の展開というのは、イスラム教やキリスト教の人が、「イスラム教やキリスト教は悪くない、一部の人が過激で極端なだけだ」と言い訳するのと同じで、書いている本人すらある種の自己欺瞞を感じてしまっている点で、世間的にはアウトな話かと思います。

ヨガはマットの上のアーサナにとどまらず、実は生活のいたるところにある、ごくありふれたものなのだということに気づけば、そのありふれたものに注意を向けることで、人によっては別に「ヨガ」をあえて行わなくても幸せになれるかもしれません。

ただ人によってはヨガの修練を行った方がよりそうした意識を持ちやすくなるため、そういう人はヨガを行った方がいいと思います。

ヨガが、日常から離れた特別なものになった瞬間に、それは暴走する可能性を持つのかもしれません。

 

あるいは千葉さんは、ヨガをやっていること自体が苦しいのかもしれません。

ヤマもニヤマも、それに縛られると感じるのであれば、それは苦痛以外の何物でもありません。

もしそうであるならいっそヨガなどやめてしまったらいいのにと思ったりもします。